二千百九十八(和語優勢のうた)アジア派の種類(空振りに終った篠原令さんの書籍)
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十二月二十八日(木)
もうひとつの「空海の風景」誤解された日本人の無常観が良かったため、篠原令さんの著書を三冊借りた。「中国を知るために」「友をえらばば中国人」「妻をめとらば韓国人」である。このうちの「中国を知るために」を読み始めたところ、空振りに終った。篠原さんはアジア派で、小生も同じである。それにも関はらず空振りに終ったのは、アジア派にも種類がある。
小生は文化派、篠原さんは人間関係派、と言ったところだらう。更にいろいろな人を取り上げると、良寛さんは漢詩派、多田駿は小生と同じで文化派、石原莞爾は軍事戦略派、となる。
西洋の考へ方に冷たさが気付く人たちアジア派となる

篠原さんは、早稲田大学中国文学科卒。シンガポール南洋大学、韓国ソウル大学留学ののち、アメリカシリコンバレーでハイテクベンチャー企業の設立に複数参加。八十年代末に中国で複数企業の中国進出を手掛ける。
韓国留学中に、奥さんと知り合った。「妻をめとらば韓国人」はその書である。

-----------------ここから「良寛、漢詩、和歌」(七十三)---------------------
十二月二十九日(金)
良寛がアジア派になるきっかけは、道元だ。しかし越後に戻ってからは、道元への熱情が影を潜める。つまり漢詩派になった。その原因は、清国渡航にあると見るが、渡航に証拠はない。
道元への熱情が影を潜めたことと、良寛の所在不明期間と、それを人に話さないし漢詩や和歌にも登場しないことは、渡航説で一気に解決するのだが。
多田駿は、当時の陸軍内で中国滞在経験があるときは、多くが親中国だった。所謂支那通である。その後陸軍は、日露戦争に勝った辺りから、中国に滞在しても親中国にならなくなった。日本に列強の仲間入りをしたと云ふ意識が芽生えたためだらう。だから多田駿が文化派に対して、石原莞爾は軍事戦略派である。
多田は漢詩など中国文化に愛着を持つが、石原にはその傾向が無い。とは云へ、石原に冷たさが無いのは、仏法派と考へられる。
アジア派は 更に細かく分けられる 良寛多田は文化派に 石原軍事戦略派仏法派でもあることがアジアを選ぶ源に 篠原さんは人間の関係派にて珍しい派に

反歌  石原は戦略派にて中国を選ぶは天台伝教がある
篠原さんの三冊は、結局読まずに終了した。人間関係派と文化派は、まったく異なることが分かる。前回の『もうひとつの「空海の風景」誤解された日本人の無常観』がよかったのは、仏法派として書かれたものだった。(終)

「良寛、漢詩、和歌」(七十二)へ 「良寛、漢詩、和歌」(七十四)へ

(歴史の流れの復活を、その四百六十二)へ (歴史の流れの復活を、その四百六十四)へ

メニューへ戻る うた(七百三十七)へ うた(七百三十九)へ