二千百八十五(うた)仏道三題(利益と空海、良寛の修行、涅槃を考へる)
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十二月十三日(水)
二週間ほど前だらうかインターネットで、強欲な経営者は何とか(記憶に無い)や宗教を信じると云ふものだった。宗教はその逆だから、この記事は読まなかった。ところが考へてみると、三十年前に転職した会社は経営者が高尾山(真言宗智山派)信仰の信者だった。しかも年賀状にそのことを書くため、或る取引先の取締役が「あの人はそのうち出家するのではないか」と冗談を云ふくらいだった。
あのとき小生は、かなり安心した、さう云ふ人が社長なら安心だ、と。ところが退職勧奨が止まることなく、あの人が亡くなったときは、多くの人の恨みを買ったからなあ、とその時は思はなかったが跡を継いだ男が再雇用問題で似たことをしたので、後に思ったものだった。そんなことがあるので「空海の風景」は半信半疑で見始めたが、原作が空海を策士として天皇や唐土の伝法僧に取り入りどんどん出世したことを書くのに対し、NHKの番組は天才空海として描いた。尤も山折さんの部分は見なかったので、NHKがどう云ふ描き方をしたのか本当のところは不明だ。
インターネットの記事を読みたいものだと「経営者 宗教」などで検索するが、出てこない。検索されるのは宗教を誉める立場で、松下幸之助さんや稲森和夫さんだけだった。

十二月十四日(木)
確かに強欲な経営者で宗教を盲信する人はゐるだらう。かつてビタミンCを大量に摂ると風邪をひかないと云ふ説があった。今では否定されてゐるが、この説を信じるのと宗教を信じるのに、違ひは無い。
つまり現世の利益だらうと来世の利益だらうと、それを目的に信仰をしてはいけない。宗教の存在意義は、性格を良くすることだ。それだと唯物論に道徳論を加へただけではないか、と云はれさうだが、性格を良くすれば人間だけではなく周囲の至る所に住む神々ともうまく行く。これなら唯物論とは異なる。
来世はよい所へ生まれると云ふのは、当時のバラモン教の影響で、仏道と本当は無縁だ。死後のことは分からない、が正しい。

十二月十四日(木)その二
良寛が、出家した時と、越後に帰国した時では、まったく異なる。良寛が手毬を付いて子供たちと遊ぶのも、それが理由だ。多くの人が、修行の結果と捉へない。
良寛の漢詩に、幼少の時と変はらないとするものが幾つもあるが、これは全く異なるが生命は連続することを歌ったものだ。例へば岩は何十年経過しても変はらない。それに対し、漢詩で岩は変はらないと詠んでも何の趣向もない。良寛の場合は、変はったのに変はらないと詠ふから詩になる。
良寛が出家の時と帰郷後は 修行ある故異なるも 漢詩に詠ふ変はらぬは 異なる故に美しさあり

反歌  良寛の法華讃にて修行度を伺ひ知れる当に仏へ
反歌  帰郷後にまづは小屋にて清貧の生活こそが修行を示す
人は歳を取るに連れて、生きることへの執着が薄くなる。年寄りが、もうすぐ迎へが来るなどと云ふのもそれである。涅槃をすれば命が消滅すると云ふのは、ブッダが歳を取ってからの説ではないだらうか。
或いは、輪廻を真剣に考へれば、輪廻を止めることこそ真の幸福だと考へるやうになる。或いは、涅槃は輪廻を止めることだとするのは止観の方法と考へることも出来る。さうでも考へないと、執着を止めることは難しい為だ。結論としては、死後のことは考へても時間の無駄だ。今を性格よく生きるのがよい。そしてそれを実践したのが良寛だった。(終)

「良寛、漢詩、和歌」(七十一)へ 「良寛、漢詩、和歌」(七十三)へ

メニューへ戻る うた(七百二十四)へ うた(七百二十六)へ