千九百九十四(うた)岩井秀一郎「多田駿 伝 「日中平和を模索し続けた陸軍大将の無念」」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
四月十八日(火)
図書館の検索機能で「良寛」と入れたところ、岩井秀一郎さんの
多田駿 伝
「日中平和を模索し続けた陸軍大将の無念」
が引っ掛かった。今は、米中の紛争に日本が巻き込まれないことが重要なので、「日中平和を模索」が気に入って借りた。多田駿とは知らない名だ、と思ひながら頁をめくると、何と石原莞爾が参謀本部の作戦部長だったときの、参謀次長だ。参謀総長は閑院宮載仁親王のため、参謀本部の実質責任者だった。
この本が検索された理由は
多田駿は、幼い頃から哲学や宗教など(中略)に興味を抱いていた。そして、いつの頃からか(中略)良寛和尚に傾倒し、自分なりに研究するようになる。その傾倒ぶりは(中略)相馬御風との交流においてよく現れている。
もう一つ
参謀次長時代、多田は陸軍大学校の校長を兼務していたが、当時の学生の中には、多田の風貌と言葉を良寛と重ねて見る人もいた。次に紹介するのは、多田の訓示を聞いた学生の感想である。
<多田中将が初めて学校にこられたとき、職員学生を集めて、近来の幕僚は、あまり利口になりすぎているといって、良寛和尚の人柄をたたえ、その例話をされたが、多田中将がちょうど良寛和尚のような人柄だと思われるので、この話すなわち就任の訓示は、実にピッタリした感じをもって聞いた。
今回の特集は、面白くなりさうだ。
多田駿(はやお) 良寛につき検索を掛けて伝記が現れる 共通点が石原と多田とにありて詳細を調べることは 将来の日本に取りて有益となる
(反歌)
石原に触れることなし最近はだが偶然で復た現れる
四月十九日(水)
多田は
河本睦(むつ)を妻としている。(中略)のちに張作霖爆殺事件で知られることになる関東軍参謀・河本大作の妹で、河本が多田と陸士同期で親友だったことから(以下略)
しかし
河本家は(中略)地元の名士であった。そのため(中略)河本家の親類より「[多田家には]財産もなき上に弟妹多く」との異見出でしも、父上母上はかかることにこだわりなく(中略)かつ大作兄上の推薦の方とて決定せり
さて昭和十二年七月に盧溝橋事件が起き、当時の参謀次長は病気の為、多田が後任となった。当時、陸軍省人事局にゐて、後に人事局長になった人の話では
石原(莞爾・作戦)第一部長の推挽によったものである、との見方が強かった。
しかし不拡大派は、まづ石原が、後に多田も追ひやられることになる。その原因について、秦郁彦は半藤一利との対談で
天皇は(中略)理論的にきちっと整理した報告をする人が好きなんです。アバウトな人間はもちろん、石原莞爾のようなハミ出し型の人間も嫌う。石原が中央を追われたまま、最後まで浮かび上がれなかった最大の原因はそこにあったと思います。
四月二十一日(金)
第一次近衛内閣が閣内対立で倒れ、平沼内閣は日独伊三国同盟に向けて交渉を開始した。ところがドイツは独ソ不可侵条約を結び、平沼内閣は退陣。次は陸軍出身の阿部内閣で、陸相の板垣も交代することになった。
当初は東條陸相案が優勢だったが、板垣陸相らの意向を踏まえて多田陸相案が巻き返した。(中略)しかし、天皇は(中略)側近の侍従武官であった畑俊六や、二・二六事件の後に粛軍に尽力した梅津美治郎を指名して(以下略)
そして
陸軍三長官会議で決まった正式な陸相候補者は多田であるにもかかわらず(中略)幻となったのだった。
人事局長は、多田に陸相就任の打診のため満州へ発ったのに、電報で中止を命じられた。
二九日朝到着して多田に面会して経過を話すと、多田は、
「自分には大臣就任の意志はなく、それはよかった」
とすなおに語り、雑談のあと飯沼はこの日のうちに新京にもどり(以下略)
飯沼の日記には
電命により、雑談を交したのみ。[多田からは]良寛の話などを聞き、良寛物語を貰い、迎えの飛行機で新京へ四時頃着。
多田が陸相になってゐれば、東條が畑の次に翌年陸相になることはなかった。
四月二十二日(土)
板垣と多田は、同時に大将に昇進した。そのときの読売新聞は
平素から「人はぼんやしている時が一番考えている」という多田は、その禅宗の坊さん臭い風貌のなかに東洋風の武将たる渋さをもっており、日本軍は強い中にも謙虚でなければならぬと説くところに思想の深味を見出す。
(中略)多田は今事変当初、参謀次長として(中略)僚友板垣は陸相として共に今事変の難局を担当した。
その三ヶ月後、多田は陸相東條により予備役に編入され、館山に引っ越した。
館山に移り住んでからも、同志たる石原莞爾との親交は続いた。(中略)石原に対する多田の評価は、一貫して高かった。(括弧内引用元略)
<(石原莞爾は)実に日本の先駆者なりしなり。この先駆者を用うる能わざりし日本は、今日の如き有様となる。誰の罪ぞや。『天実為之』か。>
次に
汪兆銘工作など日中和平工作に従事したこともある犬養健(犬養毅元首相の三男)は、石原について次のように記している。
<要するに石原は天才型であり過ぎて、同じ思想の同僚や後輩というものを、始めから作っていなかった。むしろ最も忠実な同調者は、兄貴分の多田中将一人であったのではあるまいか。>
野村乙二郎は
<(前略)板垣にしても石原を理解していたのではないことは陸相になってからの行動が示しています。そういう点から云えば、石原の上司で本当に石原を理解していたのは、参謀次長として自分の御進甲に石原軍事史を使った西尾寿造とか、同じく参謀次長として日中戦争の拡大に抵抗した多田駿くらいかもしれません。>
館山の多田宅を石原と高木が訪問し、高木の著書に
<このころ満洲では甘粕正彦氏が東条の代官的存在して君臨し、ますます暴威を奮い将軍[石原莞爾のこと]に泣訴する異民族の反感は満洲国の将来に予断を許さないものがあった。彼が関東軍の黙許のもとに阿片密輸を行っているなどという悪風聞は私共の耳にもしきりに入って来た。(以下略)
東條は有能な官吏と云はれることもあるが、これでどれだけ駄目かが分かる。この半頁ほど後に
多田は石原から「法華経第一だ読め」と進められて読んだが「シムボルばかりで要領を得なかった」と不満であったという
これは多田に同感だ。尤も良寛と云ふ共通項があるのだから当然だが。
多田は、自宅の屏風に良寛の漢詩を書き、その次に自作の漢詩も書いた。
良寛詩
六十四年夢裏過 世上栄枯雲往還
巌根欲穿深夜雨 燈火明滅孤窓前
右倣 乙酉朧月
多田自作の漢詩は、岩井さんの書き下し文があるので省略し
六十四年は長く また短い
ようやく迷悟に入り その境を聊か楽しんでいる
一朝にして国敗れ 山河は改まった
出路を問わず ただ流れに従って去る
多田さんは良寛に似て権力や出世に対し淡白で ために東條権力と上昇志向第一の男に敗れ 国も敗れる
(反歌)
東條は従ふ人しか周辺に置かずつひには国を亡ぼす(終)
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