二千百九十九(和語優勢のうた)1.中旅行小旅行の計画、2.年末年始の話題(兼、行動日記)
壬寅(西洋未開人歴2024)年
一月一日(月)
片道100Km以上の日帰り旅行を中旅行、それより短距離を小旅行と称してゐる。どちらも、計画と実際には差がある。昨日の小旅行で「よみせ通り」などを廻るときに、キヌ電通りと冠新道にも寄らうと思ったがそれは取りやめて、代はりに田端操駅跡第四門を写真に撮った。
明日は、キヌ電通りと冠新道へ行かうと思ふが、変更になるかも知れない。一つは、母を一人にしておくと危ない。二番目に、天気がある。三番目は疲れ具合かな。
キヌ電通りは、鬼怒川水力電気の火力発電所があった。東京電力の変電所や社宅のある辺りだとするホームページを見つけたが、昔の地図と照合すると、その場所は鬼怒川水力電気の変電所だ。火力発電所は、現在の尾久の原公園の位置にあった。
別のホームページには、鬼怒川水力電気の電気を東京市電で使用する為に尾久変電所までの鉄塔がバンザイ鉄塔として東京電力の「電気の史料館」に保存されてゐる。更に別のホームページには、鬼怒川水力電気の系列会社が、今の小田急電鉄だ。最初は大塚から新宿までの路線を計画したが、これは敷設されなかった。代はりに小田原方面に延長した。このホームページには、黒部ダムは鬼怒川水力電気が建設した。大正元年に鬼怒川上流で、富山県の黒部ダムとは無関係だ。
キヌ電を調べるにつれ 次々と新たな事が現れる 知るの泉は枯れること無し
反歌
鬼怒電は鬼が怒ると書く故に漢字ではなく仮名の通り名
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一月二日(火)
十二月に、取引スーパーを駅前スーパーに変へた。この会社が元日の実業団駅伝に出場するので、インターネットでちらちらと二区辺りまで見た。終了後の結果は、トヨタ自動車が優勝した。心配なのは、二位のHonda、六位のkao、十四位のSUBARUと、日本なのになぜ変な会社名を名乗るのか。
JR東日本は、駅伝ではなく停車場伝に出場と発表したらどうか。駅のほか、操車場と信号場が含まれる。先頭からの遅延は7分43秒、41両編成の17号車であった。
話は実業団から箱根に変はるが、ここ五年ほど箱根駅伝を見なくなった。その理由が判った。前は鶴見に住んでゐたから地元だった。そして年末年始に実家へ行っても、パソコンが無いので箱根を見るしかなかった。つまらないものをじっと見るのは、忍耐力の養成になる。浦和に引っ越してからはパソコンがあるので、我慢大会に参加する必要は無くなった。
母と妻子ども二人と皆揃ひ 新しき年祝ひつつ お屠蘇お雑煮おせちを食べる
反歌
新しき年は来たるも新しき春は先にて一つを祝ふ
去年までは、新年を西暦と旧暦で分けたため複雑になった。今年は西暦を新年、旧暦を新春と分けたために判りやすくなった。
元日夕方の大地震で、鶴見とは関係が深い総持寺祖院では灯篭が倒れ、重傷者が出た。家屋の損壊や、輪島の朝市は焼け野原、土地の液状化も起きた。越後線は内野駅と新潟大学前駅の間で陥没し、復旧は六日昼頃を目指す、と発表された。あんなに遠くでも、と驚くばかりだ。
しなさかる高(こ)志(し)の災起こるとも 一人残らず国の民 国を挙げての助けにて 家と仕事が戻るを祈る
反歌
能登加賀と三つの越(こし)に障りあり春来(く)るまでに戻るを祈る
一部の人が面白半分にデマを流したなどのニュースがあった。非常時にデマを流すことを犯罪とする法律を作ったほうがいい。
一月三日(水)
元日は、散歩(走)に二回出かけた。一回目は近くの銚子丸跡地へ行ったところ、マクドナルドの建物だと判った。二回目は共同墓地と神社へ行った。二つは神仏分離で分かれ、向き合ふのかと思ったら神社は入口が違った。古い地図を見ると、昭和二十年代に墓地と神社の間に道ができる。神社の入口が古いものだ。新国道ができた頃と同じだ。
二日は、キヌ電と冠新道へ行く筈だったが、小雨が降ったので中止した。一回散歩(走)に出て、その辺りを回るに留めた。本日は、キヌ電と冠新道へ行った帰りに買ひ物をする筈だった。しかし母を一人にしておくと危ないため、買ひ物だけに留めた。
お昼のち小さな旅は二日とも 行き場が変はりその訳は 小雨とそして心変はりに
反歌
明日の朝仕事始めでその帰り小さな旅も初草枕
一日と二日は散歩(走)、本日は買ひ物。ここで散歩(走)とは、散歩だが一部走る。
一月四日(木)
元日の夕食に食べたお汁粉の余った汁が冷蔵庫にある。そろそろ、残った餅を入れて食べたほうがいい。夕食は、母に餅を食べさすには小さく切るが、それでも心配なので避けるほうがいい。と云ふことで、昼食を食べに帰宅せざるを得なくなった。キヌ電と冠新道と、もう一ヶ所日暮里へは、明日以降に行くことにした。
新しき年迎へるも 二日のち小寒が来て そのあとに師走となりて大寒が待つ
反歌
小寒と大寒は陽の動きにて師走は月の動きに依りて
反歌
寒き日に外で仕事は手が冷えるまだ霜月と云ひ聞かせつつ
一月五日(金)
仕事終了後に、キヌ電通りを往復した。地図にもキヌ電通りは載るのに、表示が一つも無い。歩き始めてすぐ左側に東電の尾久変電所と社宅がある。狭い道路のとごどころに商店がある。個人経営の工場もある。阿遮院と云ふ真言宗のお寺がある。地名の下尾久字大門は山門が由来らしい。
都電の踏切を渡り更に進むと、子育て地蔵がある。これも阿遮院が関係するやうだ。
(写真をクリックすると大きな写真)
下町は 稲荷や地蔵道端に 昔から在る通りには これらが守る人と家 助け鎮めて安らかと為す
反歌
新しき街は田畑を潰す後作り稲荷や地蔵など無し
更に進むと大きな道路と合流する。先には尾久の原公園が見える。かつての鬼怒川水力電気の火力発電所跡だ。その後、旭電化の工場になり、今は公園になった。
戻る時に電柱に大門通りとある。この一本だけだった。帰宅後に調べると、都電の踏切を過ぎて稲荷のある公園(マンションの公開地か)の先で、大門通りと合流する。大門通りは、都電の一つ王子寄りの踏切から始まる。
このあと、冠新道を歩いた。この道は、新三河島から京成に乗ったときに知り、Googleのストリートビューで見た。店が点在する寂れた商店街の印象だったが、行ってみると立派な商店街だ。その理由は街路灯の下に冠新道商興会の旗がたなびく。冠新道の終端は、田端操駅第四門前の通りだ。それは大晦日に歩いて判った。
このあと隅田川駅へと繋がる貨物線を超える陸橋を歩き、西日暮里駅へ短絡した。駅横の坂を南側へ上がり、お諏方様(諏方神社を祖母はさう呼んだ)へ行き、正月だから神札おみくじ売り場は開いてゐるかと思ったらいつもと変はらず、消防士さんたちが集団で参拝してゐた。
日暮里駅方面に向かひ、法華宗のお寺は前回見逃した。説明版をなるほどと読んだ。駅前通りに出てすぐの寺も前回見逃した。ここは戊辰戦争で幕府軍を保護したため薩長側に攻撃され銃弾の跡が残る、と説明版にある。前回これらを見逃したのは、祖母が一時住んだのは富士見坂かどうかを調べるのが目的だった。
日暮里駅のみどりの窓口で、次のジパング旅行の切符を購入した。駅の規模やみどりの窓口の有る近くの駅との間隔から、次に危ないのは日暮里かなと思ひ、その前に利用してみようと思った。今回の小旅行の一番の目的はこれだが、それだけのために日暮里まで行くのは交通費がもったいないので、キヌ電と冠新道を組み合はせた。(終)
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