二千百六十五(和語優勢のうた)良寛の、行方不明時代と定住時代
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十一月十六日(木)
近藤万丈を虚偽と考へる理由の追記部分で軽く触れたのだが、良寛は行方不明時代に極めて粗食で質素に修業した。だから越後へ戻った後も、余った食事は人や動物に与えた。定住するにつれ、粗食や質素は多少緩和されたが、それでも寺の住職たちと比べれば、極めて質素だった。
小生がこのことにこだはるのは、二年前に放送された新・信濃のコロンボ2北国街道殺人事件で、「良寛には表と裏がある」と云ふセリフがあった。そもそも野尻湖で発見された遺骨は良寛研究の第一人者で(実際は違ふ遺骨だった)、その人の著書は「良寛の虚と実」だ。
この番組が特異なのではなく、良寛には行方不明期がある。だから、その間は僧侶を辞めてゐた、荘子を信じた、定住後は阿弥陀仏を信仰した、など諸説が出てくる。
冒頭に書いたやうに、行方不明期は、定住時代より粗食で質素だったのだから、裏がある訳がない。
表見せ裏も表の紅葉かな良寛紅葉表が二つ


十一月十七日(金)
良寛さんの思想を知るには、漢詩と和歌がよい。そして思想が行動になる。思想のうちの信仰を知るには、法華讃の確信ある文章を読むのがよい。万丈の嘘から行動を作ってはいけない。
万丈のよろづ嘘にて良寛の思ひが曲がり幾年ぞ 万丈なるはよろづ罪へと

反歌  良寛はもろこしうたとやまとうたこれにて思ひ行ひを読む

十一月十八日(土)
良寛さんの漢詩は、二つの逆方向の解釈ができるものもある。信仰がある、ない、と。更に、曹洞宗特有の言ひ回しもある。小生のお薦めは飯田利行「「良寛詩集譯」だ。これを読めば、良寛さんの思想が分かる。
良寛さんは、多くに分流した各宗派を統一するため、釈尊の教へをそのまま所持する達磨大師が現れたとする。その後、達磨の系統も多く別れたので、道元が統一しようとしたと、若いときは考へた。
越後に帰国した後は、阿弥陀仏にも賛意を示すやうになる。これは、すべての経典が釈尊の直説と信じられた時代だった。帰国の後は、定住の場所を提供された。万丈の云ふやうに狂人みたいだったとすると、これらはあり得ない。(終)

追記十一月十九日(日)
万丈説を批判する理由に、明治の後期辺りに廃れた還俗がある。明治時代の前期まで、僧と在家は厳格に区別された。江戸時代は、ましてや厳格だった。そんなときに良寛さんが、還俗せず読経や坐禅をせずぼんやり一日を過ごす訳がない。
もし還俗は事実で周りが知らなかったとしても、今度は再出家をせず僧形をするはずがない。関所を通行できないし、江戸時代は無宿者を厳しく取り締まった。
だから、良寛さんと貞心尼の関係も師匠と弟子だった。表と裏があるとする説は、江戸時代の制度や風習を知らない人の云ふことである。万丈は、乞食を良寛さんと勘違ひしたか、嘘をついたか。

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