二千百七十五(和語優勢のうた)行動日記(忙しの土曜日、九月に頂いた名刺、日差し物干しビタミンD、推敲、老人の作話、空海の風景、階段上り)
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十一月二十五日(土)
本日は、午前仕事、午後新型コロナワクチン接種、そのあと母のお薬手帳を家で探し、薬局へ行く、と四つすることがあった。午後の新型コロナワクチンは駅の東口側の医院で、前も一回ここで接種した。何しろこれで通算七回目である。
東口側に降りると、西口よりはるかに賑はってゐる。いつもは西口しか使はないから気付かず、たまに降りるとまったく雰囲気が異なる。帰宅の後は、お薬手帳を探した。昨日母を通院させたのだが、お薬手帳が見つからない。本日はあちこち探し、やっと見つけた。この場所は昨日も探したので、最近探したときに見逃すことがよくあるやうになった。年のせいか。
薬局へは、自転車で行った。最近国道17号の浦和に向かって右側は、合流する車が顔を出すので、自転車は走りにくくなった。薬局で無事処方薬を受け取り、一件落着した。
土曜でも忙しい日に 東口医院へ寄りて 西口に出て家戻り 武蔵浦和へ

反歌  昨日には小学生と多く遇ふ今日は土曜ですれ違ふ無し

十一月二十七日(月)
先週の木曜に九月に与板へ旅行したときに頂いた名刺が出て来た。早速メールを送ったが、既に使用しないアドレスだった。今更、電話や手紙は変なので、機会を逃してしまった。
先週の木曜の話が今頃になったのは、土曜が忙しかったためだらう。

十一月三十日(木)
先日、晴なのにジーパンが乾かなかった。翌日物干しを見て理由がわかった。今の時期は、洗濯物に日が当たらない。思へば、昔は上に干した。今は腰の高さに竿がある。上に干すと、小生でぎりぎり手が届く。母は昔どうしてゐたのだらう。物干しの床をかさ上げしてゐたのかも知れない。
今の高さだと、妻でも無理だ。小生も、最初の日は下で竿に掛けて、竿を上に持ち上げた。竿掛けの有効長より竿が長いので、竿の端を空けて左右を掛けた。二日目からは、竿を手を伸ばして掛けるやうにした。
物干しは得意な家事となりとても 上に干すのは手が疲れ 十一月の半ばより一月までと皮算用を

反歌  今の時季母は日なたに出られずにビタミンDを薬で補給
一日8㎍なので、三日に1錠25㎍を摂るやうにした。デイサービスから戻った時は、既に陽は当たらない。
(追記)一週間ほどして、低位置でも十二時前後に一時間ほど洗濯物に日が当たることが分かった。

十二月一日(金)
2161から2170まで、歌の推敲をしたところ六つのファイルで修正があり、実に六割に達した。破調に気付かないものも二首あった。推敲を欠かしてはいけない。改めて、さう思った。

------------------------ここから「良寛、漢詩、和歌」(六十八)-------------------------------
十二月八日(金)
昨日は、介護保険の関係でケアマネージャーが来た。デイサービスから戻ったあと何をしますか、の質問に母は「ベッドに入ってテレビを見る」と答へた。ベッドの部屋にテレビは無いし、母がテレビを観なくなって二年は経つ。老人の作話である。
そのとき連想したのが、江戸時代末期の近藤万丈だ。若いときに高知で、狂人ではないかと思はれる僧に会ひ、読経も坐禅もせず、しかし達筆なので書を希望すると「越後の産、了寛」と書いたと云ふ。
これも老人の作話だらう。或いは若い時の話なので、記憶が薄れて別人と間違へたか。

十二月九日(土)
NHKプラスで「こころの時代 シリーズ「空海の風景」 前編“天才”の旅立ち~大唐渡海の夢~」を見た。解説に
2回シリーズの前編は、空海の誕生から遣唐使として中国に渡り福建省に難破して漂着するまでを描く。司馬遼太郎は、空海が宗教家の枠を超えた「天才」と評した。詩文や書に優れ、建築学・土木工学・薬学や教育など多岐に渡る才能のみならず、伝統仏教の権威や天皇権力からも自由で、国家や民族の境界を突破する越境性を持ち人類普遍の存在だとする。空海の「天才」の本質は何か。四国遍路はなぜ多くの現代人を惹きつけるのか。

とある。山折さんと近隣寺院住職の話は割愛した。小生はどうも山折さんと波長が合はない。山折さんの意見に反対と云ふのではない。
中国でも空海の船が流されて到着した福建省赤岸村で、空海の人気が高いことを興味深く視聴した。小生自身は密教と波長が合はないが、鶴見に住んだとき割合近くに川崎大師があった。近くは総持寺、割合近くは川崎大師。衆生の心を安穏にするため、かう云ふ教へも必要だ、と思った。
今回気付いたのは、良寛が渡航したとすると空海、最澄、道元と並ぶ。良寛は若いときに道元への愛着が強かったが、越後帰国後は、それが無くなった。密教とは無縁だったが、道元の修行した比叡山は密教兼学の本山だ。
本来は、道元愛着は維持したまま、新たに最澄と空海にも親近感を持つ筈なのに、道元への愛着も薄れたのは、空海、最澄、道元と並び渡航したためなのか、と空海のテレビを観ながら思った。あと、司馬遼太郎記念館に膨大な蔵書があり、良寛歌集と良寛詩集もある。
渡航説を切り離して、万丈の説だけを批判するのが小生の最近だったが、このテレビで渡航説を含めた万丈偽説に戻った。

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------------------------ここまで「良寛、漢詩、和歌」(六十八)-------------------------------

十二月九日(土)その二
仕事で上層階へ行く時に、今まではエレベータで上がって、仕事をしながら降りて来た。先週に寒い日があり、やむを得ず下の階から仕事をしながら上がるやうにした。寒さ対策だった。これは一階分上がったら仕事をするから、上がるのは時々で脈拍数が増えない。空振りに終った。
その後、何かの業者が来てエレベータで上へ行ったので、待ち時間節約の為、歩いて最上階へ行った。多少脈拍数が上がっただけだと思ふ。これは一回限りだった。
そして本日から、上へ行く時は必ず歩くことにした。これは肩こり対策である。一ヶ月ほど前から、肩こりが気になるやうになった。そして四日間の旅行後は、肩こりが耐へられないほどひどくなった。四日間座る時間が長かった。本日は、記念すべき日となった。(終)

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