千六百十ニ(和語の歌) 新・信濃のコロンボ2北国街道殺人事件
辛丑(2021)
八月二十三日(月)本日夜八時の番組
「新・信濃のコロンボ2『北国街道殺人事件』」は、野尻湖の湖底から白骨が発見され、それは二年前に行方不明になった大学教授だった。テレビ番組表のあらすじに、良寛人物研究の第一人者だと載ったので、これは見逃せない。なぜなら、私のホームページは現在、良寛を特集中だ。
「良寛と夕陽の丘公園」「良寛記念館」「良寛の里美術館」「出雲崎海浜公園」が登場した。このうち「出雲崎海浜公園」だけが良寛と無関係で、代はりに二番目の殺人事件に関係がある。公園で写真を撮った東京の女子大学生とその恋人が、事件に巻き込まれる。
コロンボと妻が久しぶりの休暇で、「良寛と夕陽の丘公園」に来て、東京からの女子大生らと出会ふ。女子学生は、この春から大学院で良寛を研究する。コロンボの妻と「良寛、いいですよね」「良寛、来てますよね」「もう今の時代、勝ち組とか負け組とかないのですから」と会話が弾む。
良寛人物研究の第一人者は、若いとき家出同然に出て行った。ここは良寛に酷似する。野尻湖の遺骨は本人のものではなかった。ここは良寛の父親以南の自殺を狂言とする説もあるとした上で、犯人はそれを参考にした。
良寛研究者は、幾つかの著書があり最新は「良寛の虚と実」だ。コロンボがその本に目を通すうちに、未亡人が遺骨引き取りに来る。
みこもかる 信濃の端に 越後との 境に近い 野尻なる 真水の海は 黒姫の 麓にありて 戸隠の 裏庭にして 夏は賑はふ
八月二十四日(火)新々・信濃のコロンボの推理
(1)Yahoo番組案内には「畑野は江戸時代後期の曹洞宗僧侶で歌人・良寛の人物研究における第一人者だった。」とある。赤い部分は特異だ。良寛を曹洞宗僧侶と見る人は多くないためだ。テレビ東京のホームページには赤い部分はない。
東京の女子大生は二回目に、良寛はその時代時代で都合よく模範にされて来ただけで、実際はもっと人間臭かった、と発言する。
二つの共通点は、平衡を考慮したことだ。良寛について曹洞宗関係者から話を聴いたのだらう。だから一般には問題にしない曹洞宗僧侶と云ふことを、番組発表に入れた。コロンボの妻と女子大生が「勝ち組とか負け組とかないのですから」と話が弾んだのに、二回目は「その時代時代で都合よく模範にされて来た」になる。「良寛の虚と実」と云ふ架空の本まで出てくる。
ドラマを制作するには、多くの人が企画に加はる。それらの意見をまとめると、かうなる。
(2)主人公の竹村に随行する女刑事に、格闘場面が目立ち過ぎる。前回とは大違ひだ。所属する事務所の意向で、女刑事として売り出す戦略か。警視庁岡部の部下も武闘派刑事を演じる。これも同じ理由か。
(3)結局、長野県内に殺人事件はなかった。コロンボと刑事部長は「身寄りのない死者の尊厳を傷つけていいことにはならない」「弱い者が更に弱い者を利用する。せざるを得ない。犯罪の質も年々変はりつつあります」と話す。しかしこの会話は変だ。
畑野夫妻のしたことは保険金詐欺未遂、死体遺棄、死体損壊。病院事務長のしたことは死体遺棄、公文書偽造(を火葬場にさせた罪)。保険金詐欺は未遂だから有罪にはならないかも知れないが、死体遺棄罪と死体損壊罪が重くなるだらう。
二つの会話の根底に、日本のマスコミの弱点がある。それは社会秩序を維持する意識の欠如と、その前提での弱い者への共感がある。その行き着く先が、最近ではLGBT法案、古くは死刑廃止の主張であった。
八月二十五日(水)全体の流れを妨げる話
今回は、全体の流れを妨げる脚本が目立った。
(1)女子学生の恋人が足に怪我をして、プロバスケットチームの内定を取り消された。これでハッピーエンドにならなかった。
(2)足に怪我をしたバッグ盗難事件の時に、刑事が二名ゐて取り逃がしたのは不自然だ。だいたい刑事ドラマの問題点は、なぜ警棒を使はないのか。今回は犯人が警棒を使って、刑事二人が使はず、話が逆だ。
(3)畑野高秀を情けない男に描き過ぎた。そこまでしなくても話の流れには影響しない。あそこまで描くと、興ざめまたは退屈になる。
(4)コロンボと鑑識の「うなぎを」「あなごで」は楽しい掛け合ひだ。それに対し、コロンボが管理官の怒りを通り越した顔を真似する場面は、一瞬面白い。しかしそれだけだ。コロンボへの尊敬感を損ねる。
(5)警視庁が出雲崎殺人で逮捕した男をコロンボが調べる時、「弱い男は嫌ひだ」と犯人に云はれ、女刑事と交代する。これもコロンボへの尊敬感を損ねる。昨日指摘したやうに、女刑事として売り出す、テレビ局と事務所の戦略か。
(6)コロンボと警視庁の岡部が握手する場面は変だ。これまでもコロンボと岡部は共同して捜査してきたし、第一作はコロンボの家で岡部を招待して蕎麦作りをするところから始まる。
八月二十六日(木)まとめ
文芸者は作品で勝負、俳優は出演した映画や番組で勝負。私生活は無関係だ。良寛は、まづ修行中の僧侶として、次に成仏した僧侶が書詩歌の文芸者として生活した。
良寛を知るには、修行中時代の著作や回想を含めて、詩歌書によるべきだ。だから「良寛人物研究の第一人者」「良寛の虚と実」には無理があった。その無理を実行したから、畑野は情けない男になった。
畑野は良寛とうり二つだとするのなら、この番組はテレビ局の複雑な事情を反映したと云へる。良寛を善く描き過ぎてはいけない、と。(終)
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