二千百三十九(うた)近藤万丈を虚偽と考へる理由
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十月二十五日(水)
近藤万丈の良寛記事は虚偽だ。これが今回の主題である。この問題に入る前に、良寛渡航説の真偽と、近藤万丈の真偽は、無関係である。このことをまづ述べる理由は、近藤万丈の説を持ち上げる人のほとんどが、良寛渡航説を否定したいためだ。
しかし、良寛が渡航したとしても、四国に滞在することは可能だ。不明期間中にずっと清国に滞在したとは、考へられない。また、渡航したとすれば長崎だが、往路か復路のどちらかを、四国経由にすることはあり得る。
小生が近藤万丈の説に賛成しないのは、良寛が有名になったので嘘をつくとは云はないまでも、他の僧と混同した或いは老衰による作話ではないのか。

十月二十六日(木)
近藤万丈を虚偽と考へる理由は、良寛が何もせず小屋に閉じこもったと書くからだ。
(1)托鉢に出なければ、食事や食材を得ることは不可能だ。雨の時も托鉢はするし、その日は強雨だから托鉢をしなかったとは万丈の書き方からは読めない。
(2)良寛が還俗したことはないので、読経、坐禅をするはずだ。
(3)良寛は出家者なので「越州の産」と書く筈がない。師匠名か所属寺院名若しくは宗派名を書く。「了寛」に至っては北越奇談の受け売りだ。
万丈が寝覚の友を著すも 良寛玉島出た後に 不明時代の行動を大きく曲げる悪質著述

反歌  良寛は亡くなるまでが僧侶にて宗派超えても仏を超えず

十月二十八日(土)
万丈の書き方だと、良寛は粗末な庵に定住したらしい。決して強雨なので連泊したのではない。すると良寛の歌
草枕夜ごとに変はる宿りにも結ぶは同じふるさとの夢

とは矛盾を生じる。良寛の名が知られ出した時期、五合庵または社務所での生活を読んだか聞いた上での偽作だから、かう云ふことになる。
何もせずほんやり過ごす男には粗末な小屋を持ち主貸さず
狂人に見える男に人々は食べ物衣類喜捨するは無し
(終)

追記十月二十九日(日)
上記を読み直し、改めて万丈は悪質だと感じた。そこで追記を作り
万丈の虚実を元に 良寛は修行ではなく浮浪者に さう考へる人もあり 万丈の書は万死に当る

反歌  良寛は帰郷の後に寄進され余る食事を人や獣に
定住の前は、人々から頂いた食事が余れば、人や動物に与へた話が伝はる。質素な修行から戻った後は、食事が余ったのだらう。人々が寄進することからも、良寛の修行の跡が伺はれる。決して浮浪ではない。
今一瞬思ったのは、五合庵や社務所に定住の後は食事が足りないこともあったから、やや贅沢になったのか。しかし五合庵や社務所も、世間から見れば質素だ。

「良寛、漢詩、和歌」(六十三)へ 「良寛、漢詩、和歌」(六十五)へ

メニューへ戻る うた(六百七十八)へ うた(六百八十)へ