二千百六十六(和語優勢のうた)赤彦全集第三巻
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十一月十六日(木)
第一章「萬葉集の鑑賞及び其批評」は時間が掛かる為、後に回し第二章「歌道小見」から入りたい。
萬葉集時代の人は、心が単純で、一途で、(中略)歌に現れて居ります。(中略)どの歌を見ても、如何にも生き〱(二文字同字記号)としてゐる所であらうと思ひます。
これは子規一門の人たちがよく述べることだが、歌だけではなく詠んだ人たちの心まで考へなくては駄目だと気付いた。
万葉集の注釈書について、江戸時代までのものと明治初期のものを挙げたあと
歌の価値論にまで入つて精細に説いてゐるものは、只一つ、伊藤左千夫の萬葉集新訳があるばかりです。(雑誌馬酔木及びアララギ)さういう所まで入つてゐるものは、その外に正岡子規の「萬葉集を読む」及び其他諸説(アルス出版竹里歌話。価二円八十銭)長塚節の萬葉集十四巻研究及び萬葉集口占、(雑誌アララギ)萬葉集輪講(雑誌アケビ・アララギ)斎藤茂吉氏著童馬漫語(春陽堂出版価二円三十銭)和辻哲郎氏の萬葉集の歌と古今集の歌との相違について(雑誌思想)等であらうと思ひます。この他に小生の目の届かぬものもありませう。
子規左千夫茂吉、そしてまさに万葉を論じる赤彦。この四人が突出してゐた。
古今集以下の勅撰集及びその系統を引いたものは、(中略)全心の集中がなく、従つて、その表現は多く生ぬるく、且つ間接的なものばかりでありまして(以下略)
特に悪いものとして掛詞を挙げるが「詞の上の洒灑」と表現し、掛詞の語は用ゐない。この時代はこの語を使はないのかも知れない。
萬葉集にも序(ついで)詞(ことば)その他に言ひかけの句法がありますが、多く、直観的実情を伴つて居るのでありまして、詞の遊戯とは違ひます。
これは同感。このあと萬葉集の系統として、源実朝、田安宗武、良寛、平賀元義を挙げたあと
明治になつては、正岡子規の歌(出版社価格略)、伊藤左千夫の歌(同)長塚節の歌(同)は、私の常に座右に備へてゐる歌集でありまして、萬葉集を崇拝する現代人が如何なる域にまで到達したかを知らんとする人にも、いい参考になるべきであらうと思ひます。明治三十年以後革新された歌を作した人々のうち、これ以外にも、素質のいい歌を遺して逝つた人がありますが、それらの人が、更に萬葉集に礼拝する所があつたら、余計に歌柄に品位を備へたであらうと思うて、遺憾に感じます。
赤彦はよいことを言った。「歌道小見」は大正十三年である。(「良寛の出家、漢詩。文明その他の人たちを含む和歌論」のリンクが、191号まであったが、これを「良寛の出家、漢詩。赤彦その他の人たちを含む和歌論」に変更した。最初、文明を入れた理由は、左千夫が亡くなり終戦後年月が経つと左千夫と無関係を装ふ傾向が、本人はともかくその系統の人たちにあった。その点、文明は左千夫を立てて殊勝なので、それだけの理由でリンクに含めた。しかし文明はやはり戦後年月を経ると、歌論がかなり変化した。そのためよりふさわしい赤彦と入れ替へた)
子規左千夫茂吉赤彦 よろづ葉を敬ひ広め だが後に戦で負けて人々の心変はりて 時過ぎて生き延びた人心を変へる
反歌
戦のち文の言葉は使はずに真名と仮名さへ大きく変はる
十一月十七日(金)
今回の特集が大きくなったため、メモ書き歌(最新の歌論)へ移動した。
十一月十八日(土)
自己の歌をなすは、全心の集中から出ねばなりません。(中略)この一義を過つて出発したら、終生歌らしい歌を得ることは出来ません。自ら全心の集中と思ふものでも、案外、一時的発作に終るやうな感動があります。(中略)数日を経過し、十数日を経過するに及んで、心境から霧消して居ります。
これはどうか。これだと歌会で作ることができない。赤彦は結論として
私は、歌の道にある人人に向つて、濫作は勿論、多作をも勧めません。
子規一門の歌は、小生が見て美しいと思ふのは5%程度だ。それでも濫作や多作ではないとすると、子規一門と小生は歌感が異なる。赤彦がアララギの編集を担当したときに、離反者が多く出てその理由は何だらうと思ってきたが、この濫作、多作を勧めないところではないか。
感動の対象となつて心に触れ来る事象は、(中略)事象の姿であると共に、感動の姿でもあるのであります。(中略)この表現の道を写生と呼んで居ります。
これは賛成。しかし子規はどう考へてゐたか。
元来、写生といふ詞は、上古の志那画論から生まれた詞でありまして(中略)心と物と相接触する状態を写すものとされて居ります。それを明治時代の画論家が誤り伝へて、単に一寸した形態をスケツチする位の意味に用ひたのであります。
そして子規は、正しい意味で歌に転用したとする。だとすると日本人の99%は、子規の主張を間違って理解してゐる。子規の歌論自体を知らない人が多いが。
悲しいとか嬉しいとかいふ主観的言語は、(中略)甘たるい側に属する人々、殊に芸術かぶれ、文学かぶれ、宗教かぶれなど(中略)の口から、よく(中略)出逢ひます。
そしてせっぱ詰まった場合に稀に聞くならよいが、多用されると
身に沁みる程度が薄くなつて、しまひには軽薄感さへ伴ふに至るやうであります。
ほとんど賛成だが「芸術かぶれ、文学かぶれ」は不明だ。小生が最近文芸運動の復興を云っただけに。与謝野晶子みたいな人を云ったのなら、賛成だ。
物心相触れた状態の核心を歌ひ現すのが、最も的確に自己の主観を表現する道と思ふのでありまして、これを写生道と称してゐるのであります。
として子規、左千夫、節の歌だとする。そして
萬葉集は(中略)主観的言語を多く駢列してあると思ふ人があり、恋の歌哀傷の歌覊(き)旅(りょ、二語で旅、旅情の意味)の歌などは、余計にさういふ傾きを持つと思はれてゐるやうでありますが(中略)矢張り、現れ方の虔ましいものに傑れたものが多いやうであります。
として
人麿は、妻に別れて来た哀しみを
笹の葉はみ山もさやにさわげども我は妹おもふ別れ来ぬれば 萬葉二
と歌ひ(中略)日並皇子の会遊を追懐しては
日並の皇子の尊の馬竝めて御狩立たしし時は来向かふ 萬葉一
と歌つて居り。赤人は、旅情の寂しさを
島隠り わが漕ぎ来れば乏しかも大和へ上る 真熊野の船 萬葉六
と歌つて居ります。内に切な心があつて、外に虔ましい姿があります。
十一月十九日(日)
感動の調子が、歌の各言語の響きや、それらの響を連ねた全体の節奏の上に現れて、初めて歌の生命を持ち得るのであります。歌の言語の響き・節奏これを歌の調べ・調子若くは声調・格調等と言ひます。
具体的には
感動は、伸び〱(二文字繰り返し記号)と働く場合、ゆる〱と働く場合、切迫して働く場合、沈潜して場合といふやうに(中略)その調子が、宛らに歌の言語の響きや全体の節奏に現れて、初めて表現上の要求が充されるのであります。
これは正しいが、調べを一番害するのが字余りだ。子規派は宣長説を知らず字余りを真似したとしか思へない。
比喩の歌には熱が乏しくて理智の働く傾向があります。
これは同感。
萬葉集でも、比喩歌は矢張り理智的の所が目につきます。只歌の調子が流石に萬葉時代の特色を帯びて、後世の比喩歌と異る所があります。それを萬葉集の中に置いて見れば、色の褪めてゐる感がいたされます。
とする。
十一月二十一日(火)
萬葉集雑記に入り、子規の「鉄幹是なら子規非なり。子規是ならば鉄幹非なり。鉄幹と子規とは並称すべきものに非ず。」を紹介した上で、
鉄幹及び其徒には西洋文学の浪漫的部面の影響があつた。さうして夫れらを歌ふに最も応はしい古今集以後の歌風を以て生ま生ましく華やかに詠み出された。長い間東洋的馴致された鍛錬主義苦行主義から凡ての生活が解放されようとしてゐる当時の文明開化人殊に青年子女が額に手し鉄幹及び其徒に集まつたのは当然の事である。
子規一門が、古今集を目の敵にする理由の一端が、これで明らかになる。と同時に、赤彦の云ふ鍛錬主義も一端が明らかになる。
子規は夫れに対して寧ろ古来東洋に流るる地味にして(中略)其実生活は積極的な鍛錬主義苦行主義である。
決して赤彦だけではなく、子規一門だと云ふ。子規は病気でいつ寿命が尽きるか分からないし、左千夫は牛飼ひ業で裕福とは云へ、雑誌の出版では四苦八苦し、水害でも苦しんだ。節は早死にした。茂吉は経営する病院が全焼した。
たまたま全員の生活が苦行になったが、なるほど雑誌の購読者が離れた原因かも知れない。
萬葉調を萬葉人の気魄の現れであると解し、古今調を大宮人の生ま温るき気分の現れであると解し、与謝野鉄幹氏与謝野晶子氏の流行させたさせた歌の調子を、今代に所謂新しき人々の放縦気分の現れであると解してゐる。
なるほどこれなら、赤彦が鍛錬主義苦行主義を云ったのは、十分に理解できる。
貴族的和歌民衆的和歌といふやうな分れ方をしたのは古今集以後であつて、萬葉集時代の和歌は之を一括して民族的和歌と言ふ方が当つてゐる。古今集中の民衆的和歌と見るべき大歌所の歌や東歌、例へば
我が門の板井の清水里とほみ人し汲まねばみ草生ひにけり 大歌所御歌
近江より 朝立ちくれば うねの野に田鶴ぞ鳴くなる 明けぬこの夜は 同
しもとゆふ葛城山にふる雪のまなく時なく 思ほゆるかな 同
阿武隈に 霧立ちわたり 明けぬとも 君をばやらじ 待てば術なし 東歌
(以下略)
等を取り出して、之を古今集の他の一般の歌と対比すれば、古今集の一般の歌が如何に貴族的であり享楽的であつて(以下略)
これは正しい。そして
萬葉集の歌にあつては、単に歌と歌との間に民族的共通の心理が現れてゐるのみならず、作者の実生活に於ても貴賓の差別を撤した共通的生活の行はれてゐることを看取し得るのである。
これは貴重な観察である。古今の時代には、貴族の生活が庶民と遊離してしまった。
十一月二十二日(水)
萬葉には写生の歌がないと思うてゐる人がある。(中略)萬葉人は実に純一な心で自然の事象に(以下略)
そして
その態度が作者を事象の微細所に澄み入らせてゐるのである。
これは、自然に神々が宿ると考へたためではないか、赤彦はさうは云ってゐないが。
正岡子規の唱へた萬葉集復活の声は、子規時代には反響がなく、左千夫時代に藩協がなく、最近十年漸く一般歌壇に受け入れられた観がある(以下略)
子規は萬葉復活ではなく、萬葉集を武器に自論を唱へたとする意見があるが、赤彦はさうは見なかった。これは大正十二年の筆なので、萬葉復活は大正時代に入り受け入れられた。
鎌倉時代初期に源実朝があつて卓然として一人萬葉の歌風を宣揚し、徳川時代中葉に賀茂真淵出でて、積極的に萬葉歌風復興の説をなし、その影響によつて、田安宗武・平賀元義の如き傑れたる萬葉風歌人が輩出し、これと前後して、僧良寛の如き無碍自在なる萬葉風歌人をも出したのである。明治三十年以後、和歌革新の気運至るに及んで、正岡子規が(以下略)
赤彦は良寛を高く評価してゐるやうだ。
萬葉集のいのちは、内面から言へば、「全心の集中」であり、外面から言へば「直接の表現」であります。
萬葉集がこの二つかどうかは別にして、小生は二つの歌論に賛成。小生も同じことを心掛けてゐる。そして心掛けてゐないのが古今集である。
由来東洋には鍛錬道がある。東洋の文化は色々の道を取つて開かれて居ますが、何時も鍛錬道が骨子となつてゐるやうであります。儒教や仏教も一首の鍛錬道であると思ひます。鍛錬とは、生活力を統率して一方に集中させることであります。
これは賛成。鍛錬と云っても、道徳的なことではなかった。赤彦も
鍛錬とは(中略)自然に随つて成長する総ての生活力を一点に集中させることでありまして、寒中単衣を著たり、暑中綿入を著たりなどする不自然な鍛錬の意ではありません。
赤彦が鍛錬を云ったため、アララギの同人が減少したと云ふ記事を読んだことがあるが、この主張を読む限り、それはあり得ない。小生は、赤彦の多作禁止ではないかと思ふ。(終)
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