千九百五十五(うた) 飯田利行「良寛詩との対話」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
二月二十八日(火)
飯田さんの「良寛詩集譯」は名著なので、飯田さんの書籍を新たに三冊借りた。うち一冊は「定本良寛詩集譯」で、十九年前の「良寛詩集譯」と比べて、表現の美しさが大きく改善された。最初からこちらを読めばよかったが、気分転換で、まづは「良寛詩との対話」を紹介したい。
平成九年の出版。良寛の事を「良寛さん」と呼ぶ。小生も最近、良寛さんと呼ぶことが多い。地元では「良寛さん」と呼ぶ話を読んだからで、「良寛詩との対話」を借りる前なので偶然だった。
良寛さんともあろう仁(ひと)が、他の作品に対して評を下すなどとは、誰れしも思いつかなかったことであろう。
ところが(中略)堂々と発言している。ただしその発言の主は、髑髏、骸骨に擬してである。(以下略)
李白の詩を読み髑髏に讃す
李白 詩は無敵、唐朝 第一の才
髑髏 読んで大いに笑い、鬼神をして驚き来たらしむ。

これは書き下し文で意味が分かる。次に
杜子美の詩を読み髑髏に讃す
飯顒 山色満つ、少陵 痩せて愁えず。
詩林 独歩と称す、しばしば髑髏に笑わる
[訳]李白が杜甫に遇ったという飯顒山の景色は、結構なものである。詩作に苦しむ杜甫は、いっこうに肥れないが、そんなことは気にしない。
だが、詩の芸林においては、独歩と称されている。とはいうものの、たびたび髑髏先生に笑われるという憂き目に遭うことがある。

これは愉快だ。現代に戻ると
或る阿呆カルト友だち依怙贔屓仲間入りして髑髏が笑ふ

次に、
円通寺時代に、時には詩作にふけり、詩会を催して楽しかったという(中略)回想の詩もある。

そして
良寛さんの円通寺時代は、生真面目で(中略)という評を下す人もいるが、結構楽しく修行していたようでもある。そのうえ(中略)雲集した大衆(しゅ)の教養の高さもしのばれて古禅林の姿が滲み出ている。

これはよい話だ。

三月一日(水)
八十二頁の
良寛さんの時代は(中略)当時の世相の乱れは、今のそれを想わせるにたるもののようであった。(中略)良寛さんのように国を愛する詩人や作家は居るのか居ないのか鳴りをひそめているのが現状。

この表現は、平成九年にはまだ普通だったので取り上げた。今は、拝米拝西洋の奇妙な連中が保守を名乗り、国民を社会破壊勢力にしたいリベラルと称する連中になってしまった。
百二十頁の
世界の物理、化学、生物学者たちが研究している遺伝子について(中略)大方は、創世記およびそれ以前の究明が主であってアダム、イヴ以後の(中略)進化、遺伝については手を染めていない。したがってこれに次ぐ考古学者や民族学者も、風俗、習慣、宗教儀礼などを通して遺伝子がどう作用していたかという要件については触れていない。

完全に同感である。そして学者たちが触れない理由は、西洋が主導するからそのことに気付かないためだ。

ここから第六章「渡清江湖潜渉」に入る。柳田聖山さんと飯田利行さんの良寛渡航説は、前に読んだことがある。しかし第六章に入り八ページ進むまで、この本だったとは気づかなかった。まづ漢詩の
朝に弧峰の頂を極め、暮に玄海の流れを截つ

について
二十二歳のとき越後を後にした時の詩であるとしたのは誤註であった。改めて(中略)玄海の荒波を渡ったと読み直した。

国禁を犯すから、玄海と深い海と二つの意味を持たせた。幕府から取り調べがあったときのためである。
道元禅師の御あとを慕いての行脚であれば(中略)天童山景徳寺への参拝が順序であろう。

このあとnとmの発音について、浙江地方の方音と云ふ話になり、前に読んだことを思ひ出した。

三月二日(木)
法華讃の最後は
我れ 法華讃を作る、
すべて一百二
(中略)
句々に 深意あり。
一念 もし能く契(かな)はば、
直(ぢき)下(げ)に 仏地に至らん。

誰の作と知らずに読めば、とんでもない慢心の人だと呆れることだらう。良寛がここまで自信を持って書けるのは、渡航したに違ひない。
良寛が渡航をしたか否かには両論あれど 法華讃最後の詩での確信に 渡航をしたと判断をした

(反歌) 良寛が越後へ帰る前までの不明の時期もこれで解決(終)

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