二千百六十四(和語優勢のうた)赤彦全集第二卷
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十一月十五日(水)
まづ『自選歌集「十年」』。「切火」よりは、二百六十三首中二十一首。先頭は大正二年の
まかがやく夕焼空の下にして凍らむとする湖(うみ)の静けさ
   原作一二句「夕焼空焦げきはまれる」

この推敲は同感だ。大逆転だ。大正三年の
   家を出でて単身東京に住まんとす 五 首
古土間のにほひは哀し妻と子の顔をふりかへり我は見にけり
   原作「古家の土間の匂ひにわが妻の顔をふりかへり出でにけるかも

小生は、原作のほうがいいと思ふ。「哀し」「と子」を入れたかったのだらう。
   軽井沢にて
雪のこる土のくぼみの一(ひ)と所ここを通りてなほ遠行くか
白雲の山の奥がにはしけやし春の蚕(こ)を飼ふ少(をと)女(め)なりけり
   原作第四句「春の蚕飼ふと」

一首目は秀作。それは単身東京へ行く途中として見たときだが、諏訪から東京に行くのに軽井沢を通るか。二首目は、原作よりはるかによくなったが、原作は推敲不足だったか。
推す敲くどちらが好いか足りないが我が歌と文ときどき気付く

これで「切火」を終了した。新体詩集「湖上」について
       序
友なる大田みづほのやの歌集を世に出すべければ其のついでに我作をも添へよと是れも友なる金色社主人より云ひおこせたり。余は甚だ文芸を好めども閑少くして多く作るを得ず。従つて世に示さんと思ふ程のものもなし。(以下略)
                               明治三十八年春

定型詩だが、確かに特に優れたものではない。既に雑誌などで発表したものなので、金色社主人は二人分合はせれば書籍になると見たのだらう。注目すべきは、赤彦はこれ以降、歌に進出した。歌への参入動機としてはよくないが、後に視学を退職して東京に出てアララギの編集に当たるなど、参入時の不足分を十分に取り戻した。
赤彦は音(おと)の数合ふ詩(し)をそれて 歌の道にと入るともアララギのため東京へ出る生き方は今でも光る

反歌  いそ歳で胃の病にて亡くなるも歌とアララギ今でも生きる
「音の数合ふ詩」とは定型詩の事で、「和語のみのうた」ではなく「和語優勢のうた」でも、「定型詩」は長すぎると思った。あとは第三巻と四巻が残るので、これらを読んでアララギの赤彦時代に離脱者が多く出た理由を探りたい。(終)

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