千九百八十八(うた)1.禅入門12「良寛 詩集」入矢義高、2.えちごトキめき鉄道「雪月花」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
四月十日(月)
入矢義高さんの著書は、これまでに四回(入矢義高「良寛詩集」、二冊借りた入矢義高「良寛詩集」、三度(みたび)良寛詩と寒山詩を読む(良寛編)、帰って来た良寛)特集した。
今回は禅入門12「良寛詩集」入矢義高を借りたところ、まえがきに当たる第一章「良寛とその詩」は読んだことがある。これまでの書籍にもあった。
本文に当たる第二章「良寛詩集」も読んだのだらうが、帰って来た良寛で批判したやうな、良寛の語法誤りや和習(和臭)はほとんど感じなかった。これらの量が少ないのか、それとも慣れたのか。逆に第一章は、蛇足に思はれた。
とは云へ、入矢さんの解説は臨済禅に偏る。入矢さんは明治三十年生まれ。名古屋大学教授、京都大学教授を経て、この本の出版時(一九九四年)は禅文化研究所教授。禅文化研究所は臨済宗各派と黄檗宗が創設したものなので、お寺の出身かと思ったら、父親は英語教師だ。そして入矢さんは父親の意向でドイツ文学から中国文学に転向した。日本の欧米かぶれは、戦後に起こったと云ってよい。
明治の世英語教師が息子には ドイツ文学変へさせて中国文学進ませる 息子は平成十年に亡くなるにつき 昭和の世このやうな人まだ多く 国を西洋傾ける無し
(反歌)
秋津洲長い歴史に反するは文化を乱し国を亡ぼす
四月十一日(火)
入矢さんは文豪ではないから、文章が美しい訳ではない。例へば書き下し文が
時流と競う心なし
一(ひと)えに痴(ち)獃(がい)と呼ぶに任す
の訳文を
当世の習いと競り合う気など私にはない
阿呆と呼ぼうとお好きなように
これだと、書き下し文の美しさが無くなる。中間を取って
時流と競ふ心無し
偏に阿呆と呼ばれるに任せる
がよい。他の詩については、落ち着いた訳文で悪くはない。尤も
文殊は覚りの城の東にお住まいじゃ
は簡潔すぎる。城の近くか、城の外かで、意味が逆になる。
中国とドイツ文学入矢さん 文学者だと当てはまる ために文豪ではないと ただ表現がやや大袈裟か
(反歌)
良寛の袈裟は金色人徳の光が当たるやや大袈裟か
四月十二日(水)
入矢さんの訳注で、間違ひだと思ったのは二つだけだ。一つ目は
わらいにわらって、わらい止めなかったら
そのまま弥勒出世の時まで続くことだろう
の解説に
弥勒菩薩は五十六億七千万年のちに釈迦仏に代ってこの世に仏となって現われ(中略)その時こそは人は私を嗤えなくなり、私も人を嗤わずにすむことになるという意。
小生は、永久に続くことを弥勒出現に譬へたのだと思ふ。
五家が互いに対立意識をあらわにし
八宗が肩をならべてのし歩いたのだ
の解説に
以上の論旨からして、これは禅の法系のみに関わるものとして解すべきである。
として、八宗ではなく七宗の誤りで、臨済宗の二つの派を加へ七宗だとする。五家までは禅宗内部の話だから、次の八宗も、と考へたのだらうが、禅宗が五家に分かれ、同じやうに仏道全体も八宗に分かれたと解すべきではないだらうか。
さて、入矢さんが和習や用語の誤りまで指摘されたことは、貴重だ。その前提として、江戸時代には漢和大辞典など揃ってはゐなかったから、良寛さんも誉めるべきだが。入矢さんのご指摘を有効利用する方法がある。それはえちごトキめき鉄道の社長が、観光列車「雪月花」に中国観光客を呼び込みたいと、一ヶ月ほど前に話されるのを読んだ。
和習と誤りを直し、中國の漢詩専門家に語感を見て貰ひ、良寛作と修正後を中国で出版する。寒山の生まれ変はりではないかと云ふ触れこみである。生まれ変はりかどうかは不明だが、大きく影響を受けたのは確かだ。良寛渡航説があることも紹介する。これで「雪月花」に呼び込まう。将来は越後線にも乗り入れよう。
雪月花 越後トキめき鉄道の花形列車 将来は越後線にも乗り入れしよう
(反歌)
雪月花中国向けの観光へ売り込むために良寛詩集(終)
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