千九百九十(うた)五十嵐咲彦「埼玉を歩く 良寛さん」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
四月十四日(金)
五十嵐咲彦「埼玉を歩く 良寛さん」を読んだ。埼玉は良寛さんと関係が深い。
1.越生の龍穏寺
国仙が亡くなったあと円通寺第十一世になったのは即中だった。一部の本には、即中と良寛の仲が悪く良寛は寺を出たと書くがまったくのでたらめであらう。良高の弟子が全国と素淵。そして全国の孫弟子が良寛、素淵の孫弟子が即中。良高の系統は、西山派と呼ばれるから、即中と良寛は西山派である。
即中は、円通寺のあと龍穏寺の住職となり、そして永平寺五十世となった。龍穏寺は幕府の定めた関三刹の一つだった。
2.岡部と国仙
国仙は東武蔵の
岡村の松原家に生を受け(中略)松原家があったのは、いまの深谷市(旧岡部村)岡地区のほかには見当たらないといわれます

そして
幼い頃に両親を失い孤児となり、町田大泉寺の住職高外全国和尚に預けられました。

ここで大泉寺について
玄乗破了和尚がこの寺の二九世であった人で、(中略)大忍国仙和尚もまた、この大泉寺二五世であった。(中略)二七世絶峰義孝、二八世大英圭邦、三〇世蘭香栄秀 三二世大恭仙倫等とともに皆大忍国仙の法嗣でもあった。(「町田市史」より)

3.飯能の宗穏寺と高外全国
宗穏寺では
近くの真野家の少年が(中略)剃髪をしました。この寺の第四世(中略)高外全国和尚となる方です。

師匠が亡くなったのちは
加賀大乗寺の徳翁良高の教えを受け(中略)二十五歳の時、印可を許されるのです。

4.秩父の広見寺石経蔵と大而宗龍
貞心尼の書き残した「宗龍禅師の事」は、良寛から聞いたことが記録してある。宗龍は素淵の孫弟子、良寛は全国の孫弟子。宗龍による
秩父広見寺への石経奉納の発願は明和五年(1768)のことです。

5.深谷の慶福寺と大忍魯仙
慶福寺は曹洞宗で、境内に良寛が大忍魯仙について書いた詩の石碑がある。書き下し文は
大忍は俊利の士
屡(しばしば)話す僧舎の中
京洛に一別して自り
消息杳(よう)として不通

大忍は、良寛と同郷で出雲崎出身。出家し宇治で修業。二十三歳のとき病気で帰郷。当時、良寛は四十六歳で親しくした。二十五歳で詩集を出し、慶福寺十五世。しかし翌年三十一歳で亡くなった。
6.桶川と徳翁良高
徳翁良高は十五歳で得度。二十一歳で黄檗宗も学ぶ。後に大乗寺二十八世。高外全国が駆け付けたのはこのころである。五年後に大乗寺を引退。最近まで歴代住職から除外。原因は黄檗宗に否定的な一派との争ひか。
武州説法の庵が出来、そばに弁天を祭った。庵は後に無くなったが、弁天はあちこち移転し、今は桶川の弁天公園にある弁天堂と云はれてきた。
7.久喜の遷善館と亀田鵬斎
地元の人々の熱意で、幕府や藩が補助する郷学の遷善館が作られた。代官は亀田鵬斎を招いた。
「寛政異学の禁」から数えて十三年後のことです。(中略)禁令は民衆まで縛るようなものでは無かったのでしょう。(中略)遷善館の実際の運営には、鵬斎の長男綾頼を中心とし、(中略)綾頼の養子である亀田鶯谷、中島撫山等等の名が残されています。

そして撫山は
明治維新後には久喜に住み着きました。小説家の中島敦は撫山の孫に当たります。

良寛は江戸とは往き来したことが 歌などにより偲ばれる だが良寛と関係が深い人たち 埼玉にゆかりが多く 興味は尽きない

(反歌) 国仙と全国良高即中に鵬斎までも埼玉所縁(終)

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