千五百九十(歌) 今回は十冊借りた(二冊借りた入矢義高「良寛詩集」)
辛丑(2021)
八月二日(月)
十冊借りた中に、入矢義高「良寛詩集」が二冊あった。一冊は、昭和57年に講談社から出版されたもの。もう一冊は、2006年に平凡社から出版されたものだ。前者は講談社から題名を変へたものを含めて三回出版され、後者は、前者の二回目の出版を底本とした。私が借りたのは前者の二回目と後者だ。
つまり最も近い二冊なのだが、編集がまったく異なる。前者は、一頁が上中下三つに分かれ、「中」が半分を占める。「上」は漢文と書き下し文、「中」は口語訳だが、入矢さんが詩に仕立てたもの、「下」は用語の解説だ。
「中」が大きいので、ここだけ読んで済ませる読者が多いことだらう。前者の書籍の欠点はここにある。書き下し文を読まないことは、漢詩の美しさを鑑賞できない。更に、入矢さんが口語訳を詩に仕立てたため、この詩に嗜好が合はない人は良寛の詩まで嫌ひになる惧れがある。例へば九十三頁の
襤褸(らんる)また襤褸(らんる)
襤褸(らんる)これ生涯

これを入矢さんは
おんぼろの上にもおんぼろ
おんぼろが我が生きざまだ

同じくこの詩の最後の
誤って箇の癡獃(ちがい)となる

これを
つい間違ってこんな阿呆者になってしもうた

と訳したが、漢詩の美しさが消失しただけではなく、入矢さんの癖が鼻につく。
前者の書籍にこれを感じるが、後者の書籍を読んでも感じない。頁の編集は大事だ。
同じ本 頁編集 違ふだけ 漢詩の魅力 片方は無し


八月三日(火)
後者の書籍は、頁の上に漢文、中に書き下し文。これらが終った後に、入矢さんの口語詩と、字句の解説。
解説に「良寛の誤用」などがある。前者の書籍は、これが目に付く。入矢さんは慢心を起こしたと感じた。良寛の時代と入矢さんの時代では、漢和字典やその他の文献の量が異なるから、いちいち得意がって指摘することは適切ではない、とさへ感じた。
しかし後者の書籍では、そのやうなことはまったく感じなかった。逆に、細かい指摘は親切丁寧だ。 前者と後者で、まづ目立つのは背表紙の「良寛詩集  入矢義高」「「良寛詩集  入矢義高 訳注」だ。背表紙でも、前者は入矢さんの口語詩が中心になってしまった。
良寛は 詩集の主役 詩も主役 口語訳者は 脇役でもない
(終)

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