千九百八十四(うた)飯田利行「定本 良寛詩集譯」のまえがき
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
四月四日(火)
飯田さん訳注による良寛さんの詩は、これまでに何回も特集を組んだ。だから、飯田さんの新しい「定本 良寛詩集譯」は本体部分には言及せず、まえがきなどを紹介したい。まづ、まえがきの先頭に
『良寛詩集』は、昭和十六年以降、葦編三絶とは言えないが、座右の書となり、(中略)一方、我等を引いて往かしめる(中略)ものは何かということを認めての幾歳月でもあった。
ここで葦編三絶とは、コトバンクによると
何度も読んだために、書物がぼろぼろになること
とある。「こんな事は常識だ、よく覚へろ」と云ふのは冗談で小生も知らないからコトバンクで調べた。
限りなく奥深い学識、仰げばいよいよ高い道徳(ひとがら)。(中略)ふと衣裡に在った坐禅という名珠の存在に気づく。
これは同感である。
飯田さん訳注による 良寛の詩の数々は 我々一般読者には届かぬ背後に至るまで教へてくれる最良の本
(反歌)
良寛の思想信仰人生と文芸感を知るに適する
四月六日(木)
良寛自筆詩稿は、これまで書の愛好家によって大事に伝えられ珍重されてきた。しかしその詩の形態が、三千年の中国文学史上、空前にして恐らく絶後であろうと思われる新詩体のためか、この愛誦者、共鳴者は数寡(すく)ない。(中略)私は、こうした形態による良寛詩に傾倒してきたお蔭により、詩情を書風により、書趣を詩韻によって鑑賞できる浄福に恵まれたことを感謝する。
日本では 書き下し文読んでみて美しい詩と感ずれば 優れた詩だと今でも思ふ
(反歌)
中国と日本で違ふ感じ方良寛の詩は内容勝負
良寛の詩は新詩体これは聞かれる 良寛は空前絶後これは初めて
四月七日(金)
私は、(中略)感じ取ったものを私なりの訳文で表象したまでである。したがって訳文は、あくまで個なるものである。
前作の「良寛詩集譯」では、坐禅をしない者、正法眼蔵を読まない者、漢文の知識のない者の訳注では駄目だと大した自信であった。小生も、飯田さんの訳注について同感だが、曹洞宗に適合し過ぎたことを前に指摘したことがある。
それに比べて、今回はずいぶん謙虚になったのは、七十七歳と高齢なためだらう。だが小生の、飯田さん訳注への極めて高い評価は変はらない。つまり、まづ訳注を読み、内容を理解する。次に書き下し文を読んで、自分が調べたいことを読み取る。これが一番よい。(終)
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