千五百九十(歌) 今回は十冊借りた(入矢義高「良寛詩集」)
辛丑(2021)
七月二十日(火)
入矢義高「良寛詩集」は、漢文、書き下し文のほかに、詩の形をした口語訳があり、優れた著作だ。しかも二百六十一頁に亙る第二章「良寛詩集」の前に、五十頁の「良寛とその詩」があり、これも優れた内容だ。
良寛の漢詩について語る時、それを和歌の世界の情調と安易に同化または習合させて語るという傾向が、なお一部の人たちの間に見られるからである。漢詩はやはり先ず何よりも漢詩としての枠組みと約束ごとの中で読まれることが大切であり、この点に関する限り、日本人の作る漢詩といえども同じことである--たといそこに日本語的発想や修辞(いわゆる和習)がしばしばみられるとしても。

これは貴重な専門家の指摘だ。次に
良寛の漢詩には破格なものが極めて多い。五言や七音の詩の基本的なリズムを無視したものは比較的に少ないが、近代詩の場合は平仄(ひょうそく)のルールは無視されるのが常であり、脚韻さえも誤用している例が珍しくはない。時としては、はなはだしく措辞が拙劣なために意味をなさない句さえ散見する。しかし、ふしぎなことに、読んでいてそれほどこういうことが気にはならないし、違和感を覚えることも余りない。

漢文と書き下し文口語訳優れた著作良寛詩集


七月二十一日(水)
その理由は、五言や七音の基本的なリズムを外すことがほとんどない上に
すなおな詩想の展開のゆえに、彼の詩の破格さは読者にはさほど気にはならない。
また、特に長律の詩は、各句がいわば連用形で休止なしに次々と流れるように連続してゆく傾向がある。(中略)つまり、二句r@z[(ないし四句r@z[)で間を取りながら、リズムと詩意とを起伏と緩急の波動に乗せながら展開するという、長律詩の一般的技法とは趣きを異にする。

入矢さんは、この作風を万葉調の長歌のスタイルだと云ふ。入矢さんが、柳田聖山さんの良寛渡航説を知ったなら、清国で当時流行した庶民詩だと云ったかも知れない。
平仄の無い詩は何が原因か 清国渡航庶民詩を知り合はせたか もう一つ日本人向け書き下し読み

(反歌) 清国で当時の庶民好む詩を調べてほしい渡航謎解き

七月二十ニ日(木)
百二十頁から、仏道の詩が多い。一つ目は書き下し文が
我れ今時の僧を見るに
三業を相顧みず(以下略)

漢文もあり、本文は入矢さんの口語訳が詩の形で読みやすい。それによると
今どきの僧を見わたしたところ
自らの行為を反省することなく
寄り集まっては大口をたたき(以下略)

これは江戸時代の僧を批判したもので、批判内容も明白だ。
二つ目は仏道とは関係がなく
永夜高堂の上
龍唇琴を払拭す
調べは青雲を干(おか)して高く(以下略)

この詩に注目したのは、実際に清国に渡航しないとかう云ふ詩は書けない。
三つ目も仏道とは関係がないが、口語訳で紹介すると
ああ 世の人情の薄っぺらさよ
(中略)
義を立てるべき場に臨んではこっそり抜け出すが
得な話を聞きつけるとわっと飛びついて行く
世の人すべてが嶮しい競争
だれも曾子や顔子を見習う者はおらぬ
さあ君もさっさと俗事を切り上げて
田舎に帰って南向きの田を耕すことだ

江戸時代の僧に失望しても、達磨や中国曹洞宗の僧たちや道元以下日本曹洞宗の僧たちを無視して、曾子や顔子を採り上げた理由を後ほど考へてみたい。

七月二十三日(金)
その理由を一日考へたが、宗教は文化の一部分と云ふことだらう。この場合、文化に強さが必要だ。渡航すれば、その国の文化への関心は高くなる。
次の詩に移り、百三十頁に
いにしえの仏が教法を後世に伝えたもうたのは
人びとに自ら悟らせようとしてであった
だから人が自ら悟ってしまったら
いにしえの仏は何も手を差しのべる要はないのだ
智者はそこのところの本旨をつかんで
一瞬にして像法を越えた人となる
(以下略)

像法を越えるとは、正法のことだと欄外にある。良寛は自ら悟った。その次の詩も
過去はすでに過ぎ去った
未来はまだやって来ぬ
また現代は止まってはいない
こうして移り変る時の中に頼れるものは何もない
(中略)
以前の考えを固守してはならぬ
新しい知見を追っかけてはならぬ
まごころこめて隅々まで極め尽くし
究めに究め、尽くしに尽くせ
尽くし尽くして無心の境に到達したら
始めて今までの誤りが分かるであろう

途中にある(中略)の前だけを読めば、虚無主義だ。以前の考へに固守せず、新しい知見を追っかけてはならないのでは、一見矛盾する。しかしその次の「無心」の語で、すべてが解決する。

七月二十五日(日)
良寛は僧を辞めたのでは、曹洞宗を抜けたのでは、仏道を辞めたのでは、と云ふ疑問は多くの人が持つことだらう。しかし次の詩を読むと、良寛は修行を完遂させたのだとよく判る。
私はむかし坐禅を修して
吐く息吸う息をこまかに調えることに努めた
こうして何年も修行に明け暮れ
ほとんど寝食さえ忘れるほどであった
たといその結果安らかな境地に至り得たとしても
それは修行という努力あってのことなのだ
しかし[こうした修行を重ねるよりも]
始めから無作の境地に達して
一旦ものにしたら永久のものになるというのこそ
最上のあり方なのだ

十割賛成である。仏道の根本である因果について、別の詩で
善行をした者は出世し
悪行をした者は落ちぶれる
出世するか落魄するかはとっくに予定されたこと
(中略)
情けないことに今どきの人びとは
愚か者が富み賢者が貧乏なのを見て
善悪の報いなどありはせぬと言うが
(中略)
因果の応報は過去・現在・未来の三世に亘って
影が身について廻るように逃れようはない
(以下略)
(終)

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