千百三十九 一日に二回NHKのスヰッチを切った(心の時代、西郷どん)
平成三十戊戌
五月十五日(火)
一昨日の日曜は二回テレビのスヰッチを切った。「心の時代」と「西郷どん」だ。どちらもスヰッチを切ることにならうと予想はした。前者は対談者が論説委員を名乗るアナウンサー崩れの女で、以前に低級な番組を観た。
後者は観なくなって三週間を経過した。舞台が奄美大島に変はるから、1回だけ観た。

五月十六日(水)
「心の時代」は上智大学アンコール遺跡国際調査団長の石澤良昭さんが出演した。石澤さんの活動内容は立派だ。テレビに出演する人には、(1)活動内容や主張内容が本人をテレビカメラの前に呼ぶ人と、(2)目立つだけが目的で何とかテレビ出演に漕ぎつけた人と、(3)番組製作(制作ではなく製作を用ゐた)者の意図に合って出演した人の三種類がある。
石澤さんは(1)なのでよかった。それなのに番組が無理やり(3)に持って行ってしまった。カンボジアの内戦が始まる前に石澤さんがいっしょに仕事をした二十人ほどのうち、ポルポト政権崩壊後に生き残ったのは三人だけだった。恐ろしい話だが、ここに番組製作者だか対談者だかの、悪質な意図が入り込んでゐる。
ポルポト政権が誕生した当時と、その後ベトナムが反ポルポト政権を樹立して内戦になり、アメリカ、西欧、中国、日本がポルポト政権を支持したときに、ポルポトの悪行を放送するなら、これは意味のあることだ。しかし今では世界中がポルポトの蛮行は知ってゐる。それなのにポルポトを批判するだけだと、単なる西洋崇拝になってしまふ。
まづヨーロッパでも大航海時代、世界植民地化、三十年戦争から第一次世界大戦、第二次世界大戦までポルポトと似たやうなことが起きた。これは微増状態だった世界の生産力を西洋野蛮人どもが急拡大させたことによる不均衡、未定常状態だ。
唯物論に対抗してマルクスは弁証法的唯物論を考へた。そこで支配側は唯物論であるやうなXX教であるやうな、民主主義であるやうな無いやうな曖昧なやり方で誤魔化した。国内は誤魔化せたものの、非植民地では野蛮な行動を取った。
仏印(フランス領インドシナ)のポルポトが宗主国に留学し、共産主義と出会った。当時のソ連は民族解放を掲げてゐた。中国では毛沢東が文化大革命を始めた。マルクスの弁証法的唯物論は唯物論に対抗するものだから、文化には触れなかった。「プロレタリアは祖国を持たない」は労働者の国際団結を構築するとともに帝国主義戦争に巻き込まれることを防止するための文章だが、毛沢東は文化破壊と解釈してしまった。そしてポルポトが毛沢東の真似をした。
ポルポトに言及するならここまで云はなくてはいけない。しかし1分で放送できる。
対談者のアナウンサー崩れが、自分の旅行談を話し始めたところでスヰッチを切った。対談者は引き立て役に徹しなくてはいけない。

五月十七日(木)
「西郷どん」は、吉之助が奄美大島に流され、女性が持ってきた食事を西郷がひっくり返すところでスヰッチを切った。この後、吉之助とこの女性が仲良くなる話が延々と続くだらうが、退屈な脚本なのは確実だ。
吉之助と月照が水に飛び込み、吉之助だけ助かった。だからといって食事をひっくり返すはずはない。理由は(1)昔の人は食べ物を大切にした、(2)この女性に責任はないから女性に八つ当たりすることはあり得ない、(3)意気消沈或いは意味不明のことを叫んだりはするかも知れないが、あのひっくり返し方は正気の人だ。
一番あり得るのは、食事を無視して放置することだ。「西郷どん」の脚本は、よほど人間心理に無頓着で常識に欠けるのだらう。島の人たちが奄美大島の言葉を用ゐて字幕を付けたことと、主題曲で歌の部分に歌詞を付けたのはよいことだ。(完)

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