千百二十五 NHK批判(1.西郷どん、2.田中ケネスさん1回目は良かったが、3.マンダラと生きる)
平成三十戊戌
四月十八日(水)15日の西郷どんは最悪だった
15日はNHK番組のスヰッチを途中で切ることが二回あった。「こころの時代」のまんだらシリーズ1回目と、大河ドラマ「西郷どん」だ。この中で特に悪いのが「西郷どん」だ。
慶喜を襲った刺客を西郷が短刀で刺し殺した。その後、半狂乱で「おいは人殺しじゃ」と叫ぶ。無実の人を殺したのなら、あの動揺は当然だ。逆に動揺しないやうなら、よほど良心が欠乏してるのだらう。
しかし今回は、あのとき短刀で刺さなければ、慶喜が死んでゐた。西郷は「敵にも主君や親兄弟がゐる」と嘆くが、もし西郷が刺さなければ慶喜が殺され、慶喜にも主君や親兄弟がゐる。
今から二十五年前の大河ドラマ「琉球の風」で或る親方の嫡男が父親を斬り付け、しかし後に親方を継ぎ、平和でよかったみたいな番組構成だった。あの場面を見て不快だったのは父親に斬りかかった男が、なぜ穏やかな顔つきで跡を継ぐのか。その因果を無視した番組構成が嫌だった。
今回の「西郷どん」はそれと同じくらい因果を無視した。「琉球の風」は途中でスヰッチを切ることはしなかったが、「西郷どん」は切った。「西郷どん」のあの場面は見苦しいからだ。西郷が五秒くらい狼狽へるなら許容範囲だ。しかし延々と見苦しい場面(NHKスタッフに書かせれば熱演になってしまふ)が続くと、そんなものは観たくなくなる。

四月十八日(水)その二まんだらシリーズ1回目
「こころの時代」のまんだらシリーズは正木晃さんが主演だ。これまで正木さんにはあまりよい印象を持たない。それは本質を云はず、現象を並べるだけだからだ。だから途中でス井ッチを斬ることになるかも知れない、と予想した。そして番組を見るうちに予想通りス井ッチを切った。
マンダラの個々の部分の特徴を散発的に説明しても無意味だ。それらの背後に何があるかを話すべきだ。
とは云へ、来月は「密教のなりたち マンダラ誕生の背景」、その次も、そのまた次も面白さうな題だ。来月以降は最後まで見ることになるだらう。

四月十九日(木)田中ケネスさんの2回目
「心の時代」で田中ケネスさんが出演する回は再放送も観た。2回目は退屈するだらうと予想し、事実退屈した。田中ケネスさんは悪くない。だから1回目に観たときはよかった。2回目に観て退屈だったのはNHKが悪い。
NHKの番組構成は表面的だ。例へばケネスさんはタイに留学し瞑想法を習った。上座部仏教のどこがよく、どこは選択できなかったのか。選択できない部分は僧侶が妻帯できないことと、業務に従事できないことだらう。あとケネスさんのアメリカでの浄土真宗組織との関はりからすれば、上座部仏教を選択できないことは十分に理解できる。だからこの部分を掘り下げるべきだった。
上座部仏教の批判が入れば、私は反論せざるを得ないかも知れない。在日ミャンマー人のお寺にお世話になってゐるのだから。しかしその内容は戒律を重視すべきか、上座部仏教も原始仏教時代は仏像を建てなかったなど学術的で、仏教界に大きな貢献となる。そもそもケネスさんの学識からして、上座部仏教を批判したりはしないと確信する。

四月二十三日(月)西郷どんは二週連続で最悪
昨日は二週連続で「西郷どん」のスヰッチを途中で切った。大老の井伊が将軍の後継を紀州に決めた。西郷が一人で薩摩まで走る。ここで時間を無駄にした。別の薩摩藩士と打ち合はせたり馬を飛ばしたり、幾らでも見せ場にできる。それなのに西郷が一人で走ったり斜面を転がり落ちる。テレビの前の視聴者はわざとらしい演技に飽きるだけだ。
一月や二月のころは、西郷が現れず赤山靭負が時間稼ぎをするなど、面白い場面が幾つもあった。云はば隠し味だ。しかし最近は大雑把になった。激辛と激甘を繰り返すだけだ。しかも演技が醜い。NHKは主役を大根役者にしてしまった。
今回は、うろたえる西郷に大久保が不自然に大人びて偉さうにどなるところで、スヰッチを切った。今まで四カ月間、よくこんなくだらないドラマを見続けたものだ。民放は観なければ済む。NHKは受信料を強制で払はされる。NHKは民営化すべきだ。(完)

「マスコミの横暴を許すな88」「マスコミの横暴を許すな90」

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