千百三十八 文化の下に宗教がある(西部邁さんの「私は宗教を信じない」発言を考へる)
平成三十戊戌
五月十五日(火)
西部さんが亡くなる前にテレビで、私は宗教なんて信じないが、と発言したことがあった。今から十五年くらい前だらうか西部さんが、天皇は神主の最高位と発言したこともあった。二つの発言は矛盾する。これをどう統一するかを考へたい。
まづ文化の一部に宗教がある。文化には、言語、習慣、社会規範、宗教、伝統などがある。しかし宗教には二種類ある。文化の一部としての宗教と、科学や宗教を問はず正しいと盲信する対象である。後者は宗教だけではなく科学も含まれる。イオン水が健康によい、酸素水が健康によいと云ふ類だ。
五月十九日(土)
文化の下に宗教があると主張すると、不快に感じる人もゐるだらう。しかし社会の習慣として宗教を信じ(初詣、葬式)、言語で考へて信じ(法話、外来宗教、新興宗教)、人間関係の中で信じ(檀家、地域)、すべては文化の範疇にある。
プロテスタントも現在では文化の範疇にあるが、発生時は運動だった。運動が定着し永続性を持つと、それは文化になる。しかし近代文明は永続するだらうか。私は地球温暖化で無理だと思ふ。
近代文明はプロテスタントに限らず、カトリック、イスラム教、仏教、その他すべての人たちに関係する。このまま放置すれば地球は滅びる。プロテスタントは、近代文明に敵対すべきだ。
共産主義の弁証法的唯物論は単純唯物論への対策であり、単純唯物論に敵対するものだ。たまたまフランス革命やロシア革命のときに、体制側は宗教と関係が深かったため、市民革命や労働者革命は宗教と敵対する前例を作った。
ここで人類すべては引力が働くのと同じで堕落の傾向にあり、権力を持つ側は庶民より堕落の速度が速い。この速度差が革命(議会、暴力を問はず)の原動力となるが、宗教もこのとき堕落してゐた。
宗教と宗教の堕落部分を区別するとともに、すべての宗教と弁証法的唯物論は単純唯物論に反対する必要がある。
五月二十六日(土)
西部さんの自殺はいただけない、宗教を信じないからだ、と考へることはできる。しかし私は、天才の死として収めるべきだと考へる。芥川龍之介や川端康成が自殺しても、誰も批判したりはしない。天才だからだ。西部さんは理論ではなく実践の天才だった。
一つだけ批判するとすれば、西部さんは文化まで否定したきらひがある。晩年はほとんど完治したが、その少し前までは外来語まじりの日本語を使った。外来語が専門用語に留まったのは救ひだったが。
文化を守ることが即ち国民の生活を守ることだとするのが、本当の保守思想だ。西洋人の考へる保守思想は、フランス革命を経験しないアジアアフリカ中南米人とは感覚が異なる。西洋思想を受け入れること自体が、そもそも保守思想に反する。
西部さんもかつて、日本は経済大国ではなくもう少し貧乏でも昔の生活を守ってこれたらよかった、と語ったこともあった。あのころは西部さんと小林よしのりさんが親密だった。西部さんは周囲に影響を与へるとともに、周囲からも影響を受ける。小林よしのりさんと親密だった時代の西部さんが、西部さんの一番よい思想ではないだらうか。(完)
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