九百二十七 駅構内の操車場(まとめ)

平成二十九丁酉年
三月三日(木) はじめに
「懐かしい駅の風景~線路配線図とともに」と云ふ個人の方の作られたホームページは、十年程前だらうか山陰を旅行したときに福知山駅の配線は以前どんなだったのだらうかと検索したとき発見した。今回、富山駅はどんな配線だったのだらうと検索して、再びこのホームページにたどり着いた。
富山駅は客車区なので、次に客貨車区の駅を追加し、運転区の駅も追加し、更に懐かしい高崎、大宮を経て塩尻で終了させる予定だった。
その後、品川駅、立川駅、八王子駅をその間に挿入し塩尻を終点にしようとしたが、今は宇都宮、黒磯、水戸を経て「懐かしい駅の風景~線路配線図とともに」には掲載されてゐないが佐倉駅で終了させたいと思ふ。

四月二十二日(土) やっと終点に到着
本日三か月半を経過して、やっと終点に到着した。途中、塩尻を作り始めたときは最初「塩尻駅、篠ノ井駅と、それらの近隣」と云ふ題だった。南松本、松本、北松本、長野、北長野を扱ふ予定だったが途中で気がめげて、題から篠ノ井を削除した。それまで拡大の連続だったのにこの時点で初めて縮小した。
このとき宇都宮、黒磯も中止したが、ここで元気を取り戻して中央西線、関西本線で湊町まで行った。そして東海道本線、鹿島臨海線、東北本線を北上し弘前を終点とした。

四月二十三日(日) かつての鉄道
かつてすれ違ふ貨物列車は、目が離せない存在だった。常備駅が書かれた貨車は常備駅名を読むだけでも楽しいし、ときどき見たことのない貨車を連結することもある。最後尾の緩急車は常備駅名の略号が書かれる。機関車の次位に従来客車が連結されることもあるし、緩急車の前に従来客車、新系列の客車、気動車が連結されることもあった。
客車列車の後尾に回送の客車を連結し、そのため停車時に踏切まではみ出し、発車まで踏切が開かないこともあった。客車を転送させるだけの回送列車もあった。尤もあれは試運転列車だと聞いたことがあったが、大船で工場への入出場車を解結し平塚まで走った後に戻って来る。その列車がそのまま走るのか別の列車が走るのかは不明だが、大宮で工場への入出場車を解結し高崎まで走った。

四月二十九日(土) 客車の魅力
客車の魅力は、貨車と同じやうに「  駅に到着の上は  客貨車区/支区に回送  客貨車区/支区」と云ふ厚紙を挿す車両をときどき見かけた。冬に上野駅に到着した客車に「尾久駅に到着の上は尾久客貨車区/支区に回送 xx客貨車区/支区 水管破損」と手書きの札が挿入されてゐるのを見たことがある。太字の部分は丸で囲んであった。xxの部分は秋田だったか山形だったか記憶にない。あと今回は試しに発行区は支区に丸を付けてみた。
客車はこのほか交番検査の薄紙を挿し、これも貨車と同じだった。駅のホームに客車が停車してゐるときは、一両づつ順番に施工区と日付を見るのが楽しみだった。区は同じだが日付は一両づつ異なった。稀に常備駅と区が異なることがあった。これは貸し出したのだらう。
客車と貨車で異なるのは交番検査(指定取替)が客車では鉄製の札、貨車はペンキで四角形に記入した。電車や気動車の要部検査は客車の交番検査(指定取替)と同じやうに鉄製の札を挿した。貨車の車掌車は交番検査(指定取替)の四角形のほかに蓄電池に鉄製の札を挿した。

五月一日(月) 操車掛
鉄道の二番目の魅力は操車掛だ。後に運転係(操車担当)と変更された。機関区や電車区には同じ職種で誘導掛がゐたが、これは構内運転係に変更された。
従来客車はデッキの扉を開けて、中から旗を振るのだが、福島だったか郡山だったか扉を閉めてその扉に寄りかかり旗を振る光景を見た。全国でもここだけだった。あと、松本駅で電車が到着後に操車と云ふバッチを胸に付けた職員が運転席からホームに降りた。このバッチは長野鉄道管理局だけかも知れない。

五月二日(火)、三日(水)
東京近郊駅の思ひ出として独立

五月三日(水)その四 駅、操車場、信号場
停車場は一般には次の3つに分類される。
貨物、旅客を扱ふ。操車機能を持つ駅もある
操車場操車機能を毎日行使する
信号場列車の行き違ひを行ふ

私は別の定義を持つ。
貨物、旅客を扱ひ、操車機能を毎日行使する
操車場操車機能を毎日行使する
信号場列車の行き違ひを行ふ
不当建築物勝手に設置したホーム、出札、改札、キオスク
貨物の仕訳廃止、国鉄分割による客貨分離以降の旅客駅は、私の定義ではほとんど不当建築物になる。だからかつて私は鉄道が好きだったが、今は別に好きではない。ただし例へばハイブリッドの自動車が出現すれば原理を調べるし、バスで新名神高速を走れば地図を調べる。それと同じやうに乗ったことのない列車に乗れば仕様を調べるし、新しい路線に乗れば地図を調べる。それだけのことになってしまった。

五月四日(木) 為替レートと操車場
操車場には客車操車場と貨車操車場があり、停車場を三つ(私の分類では四つ)に分けたときの操車場と区別するため、それぞれ客操、ヤードと称した。竜華操車場のやうに客操とヤードを兼ねるものもあった。ほとんどの客操、ヤードは駅の構内にあった。
客車操車場の機能は、到着した列車の収容、洗浄と、交番検査の周期が来た車両を一両切り離して検修線に回送し、作業の終はった車両の留置、組成を行ふことだ。
電車の場合は電車区がこれを担当するが、一編成をまとめて検修線に入れれば切り離し、組成の手間が省ける。つまり操車掛を省力化できる。どちらが経済的かは、そのときの社会情勢による。
一編成をまとめて検査修繕するには広大な土地と設備が必要になる。戦後の、八郎潟を干拓してまで農地を増やそうとした時代には、そんな無駄な土地は無かった。土地を整地したり設備を建設するにも多大な人手が掛かった。一編成をまとめて作業するには車両が余分に必要になる。製造費、検査修繕費、消耗部品代が余分に掛かるため、一両づつ切り離すことは合理的だった。
為替レートが変動し円高になると、農産物は輸入するし、整地や建設のための機器は安くなるし、車両の材料費も安くなる。客車操車場が広大な電車区になったのは、実は為替レートの変動が理由だった。客車操車場だけではない。小さな電車区は大きな電車区に統合された。

五月四日(木)その二 為替レートと客車列車
かつて東北本線は黒磯までが電車、そこから先は客車だった。更に上野発一ノ関行きの客車がわずかにあった。黒磯から先がすべて客車なのは交流電化なので、変圧器のタップを変へることで電力を有効にモーターに送ることができた。電車は抵抗器で電圧を下げるから、その分が熱になって無駄になった。交流機関車で水銀整流器のものは回生ブレーキを装備できるが、機関車の揺れが水銀整流器の働きを妨げるため、この当時はシリコン整流器が使はれた。
動力費が鉄道に占める比率は高かった。だから容易に車両数を増減できる客車はその点でも有利だ。寝台列車で、本日は何号車と何号車は連結されてゐませんといふ車内放送を聞いたことがある。あと普段より増結された列車に乗った記憶もある。プラザ合意以降は動力費の占める割合が減少したから、乗客数が少なくてもそのまま終点まで走ることが普通になった。そして車両数の増減も無くなった。
後に電車で抵抗器の代はりにサイリスタを使用するものが現れた。更に後にはVVVFインバーターを用ゐるものが現れるが、それはずっと後の話だ。

五月五日(金) 職種名
東京近郊駅の思ひ出の後半に移動

五月五日(金)その二 貨車の仕訳の廃止
貨車の仕訳が廃止になり、鉄道の魅力は大きく損なはれた。あのとき、直行系と仕訳系に分けて収支を発表し、仕訳系の廃止を決定したが、如何にも官僚的な発想だ。その前にも貨物料金を値上げしたため、客離れに繋がった。
日にちは掛かっても構はないと云ふ需要は多い。ただし到着する日時はきちんと通知すべきだ。今ならコンピュータを使って簡単にできる。当時だってやらうとすればできた。運賃だって値上げ前に戻すやり方を考へるべきだった。駅の貨物扱ひ所に隣接した農協の倉庫や丸通の建物が消えたのは、今考へても残念なことだ。

五月六日(土) ドイツの鉄道
ドイツに二か月間出張で滞在したことがある。休日は鉄道でビーレフェルト、ドルトムント、デュッセルドルフ、ケルンなど近場はもとより、ボン、フランクフルト、ハノーファー、アムステルダムなどに出掛けた。その際、おそらくベルギーに乗り入れると思はれる一列車が電車だったのを除いて、すべての旅客列車は客車だった。国際列車は普通の長距離用の客車を使用し、新幹線は前後に機関車を付けた8両編成くらいのものを2つ連結し、通勤列車は先頭に運転台の付いた客車を使用した。
だからすべての列車は終点で機関車を付け替へる必要が無い。そして連結器は昔の鎖式連結器を改良したものだから発車時の衝撃が無く、これなら寝台列車でも快適だと感じた。私が想像するに、電車は床下の騒音の他に、編成に多数あるモーターのわずかな性能やタイミングの差で小さく多数の前後動がある。ドイツや欧州各国の鉄道にはそれが無い。
日本の客車は、従来客車が自動連結器、新型客車は自動密着式で、後者は衝撃が無いと云はれるものの寝台車に乗るとその衝撃は大きい。欧州の鎖式連結器は車両両端のバネで押し合ふから衝撃を吸収する。日本では機関車の付け替へを省くことと、鎖式連結器に戻すことをしなかったことが客車の衰退につながったと想像する。
なほ欧州の鉄道情報は17年前のものなので、その後の変化は判らない。サイリスタやVVVFインバーターの発展で、電車が優位になったかも知れない。(完)


富山発、会津若松、高崎、松本、湊町、京都、両国、佐倉経由、弘前への旅に出発

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