九百二十八(その一) 興亜観音と陸軍大将松井石根

平成二十九丁酉年
一月八日(日)
引っ越し後に荷物を整理したところ、「興亜観音」と題字が右側に書かれたパンフレットを発見した。左側には「"怨親平等"の慰霊 日中両軍戦没者を祀る」と書いてある。
この観音像は、昭和十五年(一九四〇年)二月、陸軍大将、松井石根の発願によって、支那事変(日中戦争)での日中両軍の戦没者を"怨親平等"に、ひとしく弔慰、供養するために建立されたものです。(中略)将軍松井は、若いころからの日中友好論者。昭和十二年(中略)南京攻略戦を果たし(中略)日中両軍が多くの戦死者を出したのを悼み(中略)観音の建立を思いたったものです。(以下略)

とある。最近の日本人には、自称先進国の日本から見た非先進国中国への蔑んだ目付きで批判する人が多いが、このパンフレットはそれ以前のものなので、中国を対等に扱ふのはよいことだ。
また、境内には昭和三十五年(1960年)に吉田茂・元総理の筆になる「七士之碑」が建てられ、東京裁判でA級戦犯として殉国刑死した七名の遺骨も葬られています。

松井石根はA級戦犯として刑死したから、戦後に七士之碑を建てること自体は問題ない。しかし東条英機は敗戦責任と弾圧責任を果たしてゐないから当時の国民が不快に思ふことはあり得る。それより今、元総理が七士之碑に筆を取ったら大問題になるだらう。これは建立当時の日本と台湾(この当時は日中国交回復前)の反応が正しい。日本では戦争をよく知る人たちが、戦後のGHQの情報操作で戦前の偏向を十分に打ち消した。その人たちが容認したものを、ソ連崩壊後に米英仏崇拝、反日の立場で偏向した主張をしてはいけない。
本堂(観音堂)の内陣には、観音像と同じ姿で、高さ六〇・六センチ(二尺)の観世音菩薩を安置とています。(中略)中央に松井大将部下の戦死者二万三千百四柱の霊名簿が宝筐(ほうきょう)に納められ、その右には「支那事変日本戦没者霊位」、左には「支那事変中華戦没者霊位」と記された位牌(いはい)が対等に祀られています。
ここで注目すべきは中華戦没者ときちんと呼んでゐることだ。支那事変はそれが正式名だから仕方がない。私が一昨年労働組合を脱退した理由は、全労協だと思って加入したらニセ労組シロアリ連合に移動した後だったこともある。しかし元全労協副議長でこのときは連合加盟単産の会長代行を兼任するこの労組の書記長が、中国のことを「チャイナ」と呼ぶ。なぜそんな変な云ひ方をするのか。或いは分裂後の委員長が飲み会で中国の悪口ばかりを云ふ。松井石根はニセ労組シロアリ連合よりはるかに正しい。
「七士之碑」が建立されて十年余りたった昭和四十六年(一九七一年)十二月、過激派学生数名が(中略)導火線を仕掛け、爆破をはかりました。「七士之碑」は大きく三つに割れ(中略)観音像は無事でした。その後、「七士之碑」は(中略)痛ましい傷跡はあるものの、ほぼ修復され、今日にいたっています。

そんな犯罪行為は誰がやったのかインターネットで調べると東アジア反日武装戦線とある。犯罪行為は興亜観音七士之碑爆破事件、総持寺納骨堂爆破事件、風雪の群像・北方文化研究施設爆破事件、三菱重工業東京本社爆破事件。昭和天皇お召し列車爆破未遂もある。
こんな事件が起きる理由は、戦前の偏向報道で洗脳された人たちは戦後のGHQの洗脳報道で中和された。酸性に偏ったのでアルカリ性で中和したやうなものだ。これらの人たちはそれでよかったが、戦後に成人を迎へた人たちはアルカリ性だけ暴露されたため、反日犯罪者になってしまった。そして悪影響はこれらの世代で終りにならず、現在に至っても拝米反日政治屋や反日パンフレットが残存する。拝米反日政治屋は主に「日本死ねの民進党」のことだが、米ソ冷戦終結後は社民党や日本共産党まで陥ってしまった。かつての「民族独立行動隊の歌」は過去のものとなってしまった。

一月九日(日)
パンフレットに載った建立縁起の大半を紹介したい。
支那事変は友隣相撃ちて莫大の生命を喪滅す。実に千載の悲惨事なり。然りと雖、是所謂東亜民族救済の聖戦たり。惟ふに此の犠牲たるや身を殺して大慈を布く無畏の勇、慈悲の行、真に興亜の礎たらんとする意に出でたるものなり。予大命を拝して江南の野に転戦し、亡ふ所の生霊算なし。洵に痛惜の至りに堪へず。茲に此等の霊を弔ふ為に、彼我の戦血に染みたる江南地方各戦場の土を獲り、施無畏者慈眼視衆生の観音菩薩の像を建立し、此の功徳を以って永く怨親平等に回向し、諸人と倶に彼の観音力を念じ、東亜の大光明を仰がん事を祈る。(以下2行協力者への謝辞略)

 紀元二千六百年二月
 願主 陸軍大将 松井石根
松井石根は戦後A級戦犯として東條英機など六名とともに処刑された。しかし南京事件のときに松井は方面軍司令官。本来責任を問はれるべきは師団長、連隊長辺りで、事実第6師団長はBC級戦犯として処刑された。同僚の第18師団長、第114師団長は戦犯とはならなかった。三つの師団を統括する第10軍司令官は終戦前に病死したが、三人の師団長のうち一人だけが戦犯に問はれたのだから、戦後を生きたとしても戦犯に問はれる可能性はほとんどない。それでゐて更にその上部組織の方面軍司令官が死刑になるのは奇妙だ。
GHQにとって原爆を誤魔化すため、それに匹敵する大きな戦争犯罪を宣伝する必要があった。そしてA級戦犯として東條と同等の人間を処刑するため方面軍司令官の松井を狙ひ撃ちにしたと見るべきだ。

一月十日(火)
パンフレットは最終ページに
松井大将ら七人を”A級戦犯”として処刑した責任者は、日本駐留軍司令官、ヘンリー・ウォーカー中将でした。昭和二十五年(一九五〇年)、朝鮮戦争が始まり、ウォーカー中将は米軍を率いて仁川に上陸、北朝鮮の背後を衝きました。(中略)戦場視察のため自動車で海岸道路を走行中、事故死してしまいました。
その日が、三年前、松井大将ら七人が殉国刑死した同月同日、十二月二十三日でした。
これはまったくの偶然だ。GHQの関係者は365人では収まらない。だとすれば同じ日に誰かが死ぬ確率は100%前後だ。730人だと200%。それなのに先代管理人がウォーカー中将の墓標を観音像のかたわらに建てた。
この墓標はいまではありませんが、近く有志の手で復元されるとの話もあります。
そんなものを復元してもらっては困る。松井大将が観音を建立した意図とかけ離れてしまふ。それより東條英機を殉国と呼んでよいのか。敗戦責任と弾圧責任を果たしてゐない。多くの戦没者に取り東條英機は恨みの対象だ。

一月十二日(木)
パンフレットによると興亜観音は芝増上寺貫首により開眼を行った。インターネットを検索すると法華宗陣門流の系統とある。
処刑された七人の遺骨は米軍が処理したが、密かに骨壷一杯分が集められ興亜観音に持ち込まれた。住職伊丹忍礼師(法華宗陣門流、僧正)は講和条約まで秘蔵し、その後「七士之碑」の下に埋葬した。さういふ事情であれば東條英機も入れるべきだ。
このパンフレットは興亜観音を守る会の振込取扱票が折り込まれ「郵政省」とある。だから九年以上前のものだ。「靖国神社」とゴム印が押してある。靖国神社については東條英機は分祀し、他のA級戦犯を合祀するのは良いとして事務折衝で中国などの了解を得るべきだ。ここが外務省の腕の見せ所だ。元A級戦犯の岸伸介が首相になった以上、日本はA級戦犯全体を悪いとしてはいけない。しかし東條英機については分祀すべきだ。お国思ひの東條英機だ。本人もそれを望んでいよう。(完)


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