千七百四十二(歌) 閲覧注意新幹線建設に伴ふ高崎駅の変化(付録、大宮駅も)
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
五月十一日(水)
三ヶ月前に新しいパソコンを使ひ始めてから、背景の写真は買った状態で二ヶ月ほど経過した。しかしマイクロソフトの用意した写真はつまらないので、高崎駅の昭和三十三(1958)年線路図に変更した。
今から三十五年くらい前に高崎へ行ったところ、本屋口から最も遠いホーム(上越線上り)の更に遠い側に、線路を撤去した跡が10線くらいあった。そしてホームの東京寄りに、新しく留置線と客車区の研修庫が作られ稼働してゐた。
だから剝がされた線路跡は客車留置線だったのだらうと思ってきたが、かうして画面の背景絵として表示すると、上り側線の1から4、その外側が上り貨1から7、機回り線、洗條主線。
機回り線の新前橋方に機関区の留置線3つと石炭線1つと扇形庫は36線。
洗條主線の新前橋方は仕立1、2、洗條1、2、3、仕立3、板x(判読不能)線。仕立3は枠で囲はれるので、研修庫と想像した。仕立検査とは今の始業検査のことで、仕立3は交番検査だらう。
当時を見た人のかすかな記憶で、上り貨4から7も客車の留置線だったさうだ。これはあり得る。貨物は下りの本屋より新前橋方に貨物扱ひと貨車留置線が合計12線ある。このうち貨物扱ひは貨物ホームの形から3線か。
ホームの本屋と反対側の郡線上野方に電キ1から4、南1から7がある。電キは電気機関車または電車の短い編成、南は貨車の留置線だらう。これだけ貨車の留置線があれば、上り貨を7線とも貨物が使ふはずがない。 下貨12線の新前橋方に日清製粉と東京ガスの専用線が1線、本屋の上野方に上信線との亘り線、その更に上野方に日清製粉の専用線が2線あっても。
機関区はこの当時から、高崎第一、第二とも高崎操車場(略称、高操)構内にありELとDLで分けたのかと思ってきたが、高崎駅に第一、高操に第二があったことを初めて知った。
高崎は駅と高操倉賀野で役割三つ分けて繁盛


五月十二日(木)
昭和五十三(1978)年線路図では、ホームの本屋とは反対側にもはや線路はない。代はりに駅の上野方に、留置1番から7番、洗條8番、仕業9番、研修10番が新設された。研修10番は枠で囲まれ「客車区」とある。ここが研修庫だ。10番から上野方に引き込みがあり「救援車留置線」とある。
この時代に上野から高崎行きの客車列車に乗ると、高崎で機関車を切り離したあと客車だけ停車し、一時間前後してから長野行きになった。中線を高崎操車場方面からDD13が操車担当の旗で走るにしてはかなり速く新前橋方に行った直後を、別のDD13が操車担当の旗で同じく新前橋方に行った。
この当時は客車列車が全国の幹線を走り、客車を一両単位で客車操車場間で授受する機能を兼ねた。
新しく新幹線を作るとき 駅の形が歪むため 当時思った建設するな

(反歌) 数年後貨物のための操車場全廃するが発表される
(反歌) 操車場無いと貨物はコンテナと列車単位を除き走れぬ

五月十三日(金)
その数年後には、国鉄がJR七社に分割されることが発表された。特に、旅客と貨物の分離は重大だ。これで客車の優位性は無くなり、激減するだらう。そして予想どほりになった。
機関車を旅客と貨物共通に使はないなら優位無くなる


五月十四日(木)
新幹線建設時の高崎駅と同じことが、大宮駅でも行はれた。機関区と客貨車区は川越線ホームの上野方にあった。それを機関区は今の鉄道博物館の位置に気動車用を仮設し、客貨車区は大宮操駅構内に新設した。
貨車しか検修しないのに客貨車区を名乗るのは、大宮駅にサービス班があったのだらうか。私は無かったと思ふ。東大宮派出検修と派出運転が、尾久客車区だったことでも、大宮客貨車区を有効に活用してゐなかった。
しかし高崎と大宮は、新幹線建設の為に、客(貨)車区を移転新設したのだから、まだ貨物操車場や客車の廃止が現れる前の時代だった。ちなみに、東大宮操車場(略称は大操。大宮操駅とは別)は大宮駅の管轄で、職員は大宮駅所属だった(電話帳によると)。大操は、大宮駅発着の列車ではなく、上野駅発着または尾久駅の増備だから、ここも有効活用ではなかった。
操駅と大宮駅と大操に貨物旅客と尾久の派出所
(終)

追記五月十六日(月)
尾久客車区も、東大宮と同じで検修と運転があった。電話帳で見る限り、全国でこの二ヶ所だけだった。構内の入れ替へは駅の管轄だから何を担当するのだらうと、尾久駅のホームの助役に質問したところ、走行を追ってゐるのではないかとのことだった。
そのときは納得したが、走行距離を把握するのはどこの客車でも同じだ。今思へば乗務員の点呼だ。尾久は客車区なのに気動車が配置された。これは特急の担当は特定区に限ったためだ。
国鉄が分割の後は、かう云ふことを調べることもなくなった。民間企業だから、どう云ふ組織でも企業内のことで、国民は関知しない。

追記六月二十二日(水)
昨日京浜東北線に乗ったら、車内の扉の上にあるディスプレイに故障中の紙が貼られ「東京総合車両センター赤羽派出検査」と書いてあった。なるほど赤羽にはサービス班があるのか、と分かった。サービス班とは、扉が閉まらないなど小修理のときすぐ駆けつける担当だ。
サービス班は鉄道電話しか無かったのだらう。赤羽にあるとは知らなかった。と云ふことは、大宮駅にもあった。大宮客貨車区、八王子客貨車区、茅ヶ崎客貨車区がなぜ貨車区ではなかったのか四十年間の疑問が解決した。

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