九百二十七 駅構内の操車場(1.東京近郊駅の思ひ出)(2.職種名)

平成二十九丁酉年
五月二日(火) 東京近郊の駅の思ひ出(1.赤羽)
定期列車に併結させた客車の回送は、赤羽駅で見たのが唯一だ。上野方へ向かふ客車列車は通常であればホームに収まる。ところが後方にはみ出して踏切にも掛かったことがあった。踏切は列車が発車するまで閉まったままだった。列車に目を向けると、乗客のゐない車両が2両か3両、最後尾に連結されてゐた。

赤羽はあと3つ話題がある。東北貨物線の上下から川口方にかなり行ったところで二線が分岐し、つまり複々線の状態になった後で、分岐した上下は赤羽線(現、埼京線)に合流した。四線のどこにも貨物列車が20分か30分停車し、赤羽駅の貨物扱ひ線に入れ替へを行った。東北貨物線は田端操駅の手前でそのまま山手貨物線に入る。つまり赤羽と池袋の間は貨物列車に取り複々線だった。
なぜこのやうな構造なのかは、赤羽駅は本線に停車して入れ替へをするから東北線に停車したときは赤羽線、赤羽線に停車したときは東北線経由にしたのではないだらうか。
赤羽線は板橋駅にも貨物があったが、それよりは板橋を通過する貨物列車が昼間は少数、深夜は多数あった。

二つ目に、赤羽駅の板橋方に民間鉄道車両会社の引き込み線があった。一線で二両程度入るだけの工場だったが、赤羽線を板橋方に入れ替へでヂーゼル機関車が貨車数両を引いて走った。

三つ目に、東北線から貨物線への渡り線が川口方にあった。尾久から大宮で入れ替へをして高崎への客車回送列車がここで貨物線に転線した。今は川口駅構内に移転した。

五月三日(水) 東京近郊駅の思ひ出(2.池袋、新宿、渋谷、恵比寿、大崎)
池袋は西武線との貨車の授受があった。それとは別に赤羽線発着ホームの板橋方が複雑だった。今思ふと東武線との貨物授受のための留置線や機待線の跡だったのかも知れない。その先の北池袋駅の手前の赤羽線と東武線の間に、一線どこにも繋がらない錆びた線路があったから、ここで授受を行ったのだらう。
新宿は、渋谷方左側に新宿客貨車区の木造の検修庫があった。1番線2番線ホームの四ツ谷側に新宿客貨車区(新宿支区或いは出張所が後に付いたかも知れない)と中野電車区新宿出張所(支区かも知れない)の看板の掛かった部屋があった。これが貨車区ではなく客貨車区だった理由かも知れない。新宿駅の大久保方左側に中央線快速と山手貨物線との複雑な線路があった。材料線だらうが、池袋の板橋方左側もこれだったのか、との思ひもあった。
昭和50年頃の鉄道ファン誌に、渋谷駅と恵比寿駅の貨物扱ひが日勤になったと云ふ記事が載った。
大崎駅の目黒方左側にも材料線の複雑な線路があった。複雑な線路は鉄道の三番目の魅力で、貨車の仕訳の廃止とそれも影響するのだが材料線の廃止(仕訳をしないと1両単位の事業用貨車を輸送できない)が複雑な線路を激減させた。

五月三日(水)その二 東京近郊駅の思ひ出(3.東京、秋葉原、上野、王子)
東京駅には品川客車区東京支区があった。秋葉原は貨物扱ひ所が高架であり、私が中学一年のときくらいまでだらうか、田端操から隅田川に行く多数の線の西側を単線で分かれてトンネルで東北本線をくぐる線があり、昼間は二時間に一回くらい貨物列車が走った。
上野駅には上野客車区があった。職員の配置のみで車両の常備や検修線は無かったが、地平から高架に上がる勾配の跡が一部残ってゐたから、或いは高架のホームから入れ替へで地平のホーム経由検修線に行く跡かも知れない。
王子駅の東十条方右側に中規模の貨物扱ひ所があり、一度だけ戦車を無蓋車に積んであるのを見たことがある。王子からは北王子、須賀への貨物線があり、前者は数年前まで、後者は私が中学三年のときまで貨物列車が走った。王子駅は貨物線に架線のある部分が須賀廃止後も二年くらいあった。田端操から王子までは非電化だから、電化区間の離島だった。都電と平面交差するので、都電側は1mくらい停電区間があり須賀駅廃止後も赤羽までの都電が廃止になる二年くらい続いた。
王子の貨物扱ひ所の最北端に京浜東北への不十分な渡り線(保線用)があった。或いはかつて東十条から国鉄火力発電所への引き込み線へ行く列車は、ここを使ったのかも知れない。
この渡り線の近くに貨物線東北線京浜東北線の6線と垂直に長さ50m位、高さ5m位、幅3m位の土手があった。交差する部分だけ欠損してゐた。これは後に調べたところ、火薬工場から十条の軍事基地への専用鉄道跡だった。土手と道路と交差するところはトンネルがあり、土手に上ると線路は無かった。

五月三日(水)その三 東京近郊駅の思ひ出(4.蒲田、川崎)
蒲田、川崎の貨物扱ひ所へは下り線のみ入れ替へを行った。大森はその前に廃止になったので目で見たことはなかった。川崎は南武線でも東芝と明治製菓の工場への専用線があり、こちらはその後も使用された。南武線から東海道線まで1線づつ渡り線があった。今は南武線と京浜東北線の渡り線が無くなった。(完)

--------------------------------------------------------------------------------------------

五月五日(金) 職種名
竜華操車場の構内指導係だった人が、優等客車列車が回送で来たときの写真をインターネットに掲載されてゐた。構内指導係とはどういふ職種だったのか気になってゐたので、今回調べてみた。転轍手とは何かと云ふ質問へのYahoo知恵袋の回答で(抜粋)
現業職として採用されると駅手、庫内手、連結手など総称して「手職」(てしょく)。
1~5年後に「掛職(かかりしょく)試験」を受けて鉄道学園(今の社員研修センター、昔も今も全寮制)を修了してから改札掛、信号掛、操車掛、検修掛など。車掌は「掛職」の範疇に入る。
動力車乗務員は「機関士」「運転士」で「士職」。
庫内手→機関助士→機関士または運転士
庫内手→検修掛→機関士または運転士
(採用職→車掌→運転士・・・となったのは民営化以降)
「転轍手」は手職の中でも変わり種で、連結手を数年経験した職員が転轍手になった。
事情で、鉄道学園に長期間入所できないとか農繁期に家業を手伝ふ農家の倅が(昇職の際に転勤となるケースが多かった)試験を受けなかった(受からなかったのではない)。しかし「転轍手」には一風変わった人や、仕事以外に「芸」の覚えがあるなど個性的な人が多かった。
本線の分岐器を扱うのは、通常は「信号掛」。殆どの場合、ポイントは信号機と連動だから。信号扱所に居る係員は勿論、ローカル線の駅舎の傍らにあった「てこ」を扱っていたのも信号掛や助役など。掛職でも出札掛らはこれを扱う事が禁じられてた。 連動ではない、ヤード内などのポイントの、通称「だるま」などのてこを扱っていたのが転轍手。操作そのものは簡単。しかし転換不良(途中停止状態)や車両通過中に途中転換すると脱線する。古参者が登用される所以。
操車掛と手旗や合図灯で合図を交わし、ポイントを「反して」いた。操車掛との見分け方は、操車掛が赤と緑の2本の「フライ旗」を持っていたのに対し、転轍手は赤1本。そして旗などは持たず貨客車の行き交うヤードを走りまわっていたのが連結手。 操車掛は入換作業時のチームリーダーで、転轍手、連結手は操車担当の合図に従う。それが国鉄時代の操車場や組成駅、一般駅(貨物を扱う駅)の風景。
転轍手は、基本は操車掛の合図に従うだけだが、危険を認めた場合は赤色旗や合図灯で停止合図を出す。転轍手は、手職でありながらも経験豊富で、出札改札の掛職以上のプライドを持つ人も多かった。天下の?操車掛も、転轍手には一目置いた(操車掛より転轍手の方が先輩であった場合も多々あり、お知恵を拝借、あるいは転轍手の機転で事故を防いだ例も多い)
なお、手待ち時間では、操車掛や連結手たちは広い詰所に集まってワイワイガヤガヤしていましたが、転轍手はポイントの近くにある一坪ほどの広さの「箱番」(はこばん)に残り、花壇の手入れをしたり、果ては句を詠んだり詩吟をうなったりする御仁が居た。
箱番には火鉢を置く事くらいは許され、上等な箱番ですと腰掛が畳一畳の間になっており、あるいは傍らに水道もあった。今は無線での合図が主流で、フライ旗はほぼ絶滅。
国鉄末期は
改札掛・出札掛→営業係
操車掛→運転係 操車担当
信号掛→運転係 信号担当
連結手→構内係(新参)構内指導係(古参)
転轍手は、構内指導係 転轍担当。通称「テンヤ」「ヒラテン」。
現在は非連動のポイントそのものが稀少。ある場合でも、それを扱うのは殆どの場合、旧国鉄の操車掛に相当する人たち。

回答された方は車掌についてあまり触れなかったので追加すると、昔は乗務掛が検札を行ひ、複雑な場合に乗客専務(Conductor)が来た。後に乗務掛が無くなり、専務車掌の上に車掌長(Chief Conductor)ができて、専務車掌の半分くらいが車掌長になった。つまり職名が半分だけインフレした。寝台列車では車掌補がゐた。国電区間は車掌(英語名無し)と云ふ腕章を巻いてゐたが、旧職名で云ふと乗務掛と乗客専務の中位、新しい職名で云ふと乗客専務と同位だと思ふ。
この点についても興味深い話がある。昔は国電区間の車掌区には車掌しかゐなかったが、私の記憶では昭和51年辺りから乗客専務(Conductor)の腕章を巻いた人が現れた。私は車掌の上位だと思ったが、今考へると車掌と同位で、運転車掌または車内改札をする車掌と、車内改札をする乗客専務がよその車掌区から転勤したのかも知れない。国電区間の車掌区には車掌長はゐなかった。


メニューへ戻る 前の駅へ (まとめ)へ戻る