八百八十 平和を叫ぶ人は平和主義者ではない(心の時代「“ブッダ最後の旅”に学ぶ」その六)

平成二十八年丙申
九月十九日(月) 一言で番組が台無しに
心の時代「“ブッダ最後の旅”に学ぶ」第六回は、番組最後に草柳隆三氏の不用意な発言で全体が台無しになった。まづ草柳氏が
平和といふことを考へると(今は)恵まれた時代とは云へない。
と発言した。今ほど恵まれた時代は無いではないか。しかしこの豊かさは地球滅亡と引き換へだ。何と贅沢なことを云ってゐるのか、と少し嫌な気分になった。このあと丸井氏が
生死を乗り越える、中道、無記
の話をされた。無記とは形而上学的な問題に釈尊が判断を示さなかったことを云ふ。そのあと草柳隆三氏がまた
やすらい、寂静、平和
と話した。先ほどは平和といふ語は別に何とも思はず、恵まれた時代とは云へないの部分に嫌な気分になったが、今回は平和の語の乱用に不快だった。平和を叫ぶ人間に平和主義者はゐない。例へば、幸福、幸福、・・・と叫んで幸福になるか。なる訳がない。そんなことをする暇があったら、釈尊のお経を唱へるなり、戒定慧の三学に励むべきだ。それと同じやうに平和、平和と叫んでも平和は来ない。
「やすらい、寂静、平和」と云ったときの平和は穏やかといふ意味だ。しかし戦争、平和と対比させるときの平和と紛らはしい。一方、最初の発言で「平和といふことを考へると」と云ったときの平和は、戦争、平和と云ふときの平和だらう。だとすれば「やすらい、寂静、平和」のときも無理やり平和の語をこじつけたと見るべきだ。
NHKのホームページによると、番組の第六回目について
「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい…」。最後の言葉を残してブッダは入滅する。それはまさに「大パリニッバーナ(大いなる完全な涅槃)」の成就であったが、果たしてその境地とはいかなるものであったのか。そしてブッダの教えは、現代のわれわれに何を問いかけるのか。「慈しみ」という言葉をキーワードに、対立を乗り越える智慧(ちえ)、平和思想としての仏教の可能性について考える。
冗談ではない。第六回はブッダ入滅時とその後についてだ。草柳隆三氏が捻じ曲げたのか番組制作者が捻じ曲げたのか。平和は尊い。その平和を破壊するのは平和の語を乱用する者どもだ。番組が始まる前の予告では
第6回「人間ブッダの探究」
原始仏典の一つ『大パリニッバーナ経』。ブッダが最後の旅で説いた教えをひもとく6回シリーズの最終回。ブッダの臨終を見つめる。入滅後、教えはどう守り伝えられたか
予告とはかなり離れたことを話したことになる。日放労はかつては総評に所属したが、連合結成とともに既得権維持、偽善に陥り、それが番組に現れたのだらう。

九月二十日(火) 番組の内容
この日の放送は次の内容だった。
釈尊は、初禅、二禅、三禅、四禅、空無辺処定、識無辺処定、無所有処定、非想非非想定、滅想受定と進んだ。アーナンダが尊者アヌルッダに 「尊師はニルヴァーナに入られました」と云ふと「尊師はニルヴァーナに入られたのではありません。滅想受定に入られたのです」と答へた。 滅想受定から逆向きに初禅まで戻り、また順に四禅まで進み涅槃に入った。
有余涅槃(肉体の制約がある)
無余涅槃(死で肉体の制約がない)
欲界 我々
色界 初禅から四禅
無色界 空無辺処定から滅想受定
鈴木大拙 先生は死んで生きておられました
涅槃寂静
常 無常、楽 苦、我 無我、浄 不浄
沙羅の木 二本から四本へ
比較思想
以上の話があった。内容が多方面に亘るものの、一つ一つは掘り下げることなく表面的に言及するだけで終はった。二か月ぶりに観たので、釈尊の言葉をわざとらしく年老いた弱々しい声で読むのが不愉快だった。どの宗教の経典であっても、読むときはしっかり読まなくては冒涜だ。あと最初のほうの一場面で比丘たちの衣が釈尊を含めて全員青色のときがあった。他の場面ではだいだい色でそれは今に至るまで引き継がれてゐる。なぜこのときだけ青色にしたのか不可解だった。歴史にないことを入れるのは伝統の破壊だ。(完)


全宗教(百二十二)全宗教(百二十四)

「朝日新聞批判、その三十八(マスコミの横暴を許すな67)」「マスコミの横暴を許すな69」

(その三、その四)

メニューへ戻る 前へ 次へ