八百五十一 心の時代「“ブッダ最後の旅”に学ぶ」(その三、その四)

平成二十八年丙申
六月十九日(日) その三
本日の心の時代「“ブッダ最後の旅”に学ぶ」(その三)はまづ先月の中村元氏の頼るべき自分と捨てるべき自分の話をされた後、次のお話があった。
ブッダは四神足で永久に生きられる
ブッダがアーナンダに涅槃を延期する発言を期待したが、アーナンダは悪魔に取り付かれてゐた。
霊樹 インド古来の樹木崇拝の表現だと中村元氏は見抜いた
如来は死んだ後に存在するのかしないのかなど四つの質問に答へなかった。答へることに意味がないため。
悪魔が涅槃を勧めた。四種の悪魔(1)煩悩そのものが悪魔、(2)我々の存在そのものが悪魔、(3)死そのものが悪魔、(4)姿かたちある天魔
ブッダは寿命の素因を捨てて三か月後に亡くなった。素因 サンカーラ。寿命の素因を捨てないと亡くならないところが我々と違ふ。
ブッダが永遠に生きることをアーナンダが三回懇願したら承認した。アーナンダの罪、過失だ。今までに15回あった。漢訳、サンスクリットと比べてパーリ語だけがアーナンダの過失をとがめてゐる。
最後に出て来たパーリ語が厳しくアーナンダへの過失をとがめることについて、丸井氏はアーナンダはブッダの身の回りの世話をしたので修行が十分にできなかった、その一方で身の回りの世話をするアーナンダへの妬みなど、マハーカッサパの思ひが現れたのでは、と推定される。しかし私は違ふと思ふ。ブッダ入滅の当時は漢訳、サンスクリット、パーリ語ともに同じ内容だった。といふかこの当時は漢訳とサンスクリット語訳はまだ存在しないが。時代を経るにつれてブッダの神話化が進み、パーリ語のものが変化したと捉へるべきだ。
この点について丸井氏も、中村元氏が人間ブッダが神話化していくと捉へたことを紹介し、丸井氏自身は、しかしどこまで後から神話化したのか、と疑問を呈された。私は中村氏の意見に全面賛成だ。人間のシャカムニが修行してブッダになった、長い年月を掛けて神話化が進んだ、といふものが正しいと思ふ。だから上座部仏教は一番、原始仏教の内容を伝へてはゐるが、神話化とブッダの前世の話は後世の創作だと思ふ。

六月二十一日(火)
一昨日の放送内容だと不満が残る。まづブッダが十の質問に答へなかったうちの四つを話された。しかし残りの六つの解説はなかった。それなら最初から十に触れないほうがいい。四神足も単語を出しただけで解説はなかった。難しい単語を出すなら解説する。解説しないなら難しい単語は使はない。四神足なんかは構成する一つ一つは簡単な内容だが、なぜ四つでひと組なのか。解説すれば奥が深くなる。
今回の放送でためになったのは、寿命の素因を捨てないと亡くならないところが我々と違ふといふところと、漢訳、サンスクリット、パーリ語のうち厳しくアーナンダへの過失をとがめるのはパーリ語だけだといふ部分だった。この内容で一時間観るのは退屈だった。
外国語の学習は専門家か、別の学問にどうしても必要といふどちらかの目的が無いと頭が悪くなるといふ法則がある。
外国語の専門家が外国語を極める。これはよいことだ。その場合、テレビに出演するとこの単語は幾つ意味があり時代によってこのように変はり、文法はどうでといふ話になるだらう。別の学問にどうしても必要だから学習する。これも悪いことではない。中村元氏は仏教への篤い信仰があったから後者といへる。
丸井氏の場合はサンスクリットやパーリ語の専門家ではあるのだらうが極めたとまでは行かないと思ふ。仏教への信仰心はない。インド思想が専門ではある。

七月十七日(日) その四
七月の「“ブッダ最後の旅”に学ぶ」(その四)はメモ書きによると
四大教示(1.ブッダから聞いた、2.教団から聞いた、3.長老の修行僧から聞いた、4.一人の修行僧から聞いた)を語る修行僧について、 喜んで受け取られるべきではないし、また排斥されるべきでもない。経典に合致し、戒律に合致するなら世尊が説いたとすべきだといふ話があった。ブッダはそのときに応じて説法するから、経典と戒律に照らし合はせるのは良いことだ。ここで戒律を経典と同列に扱ってゐることに注意すべきだ。戒律は経典と同じように尊重しなければいけない。
きのこ料理はブッダだけが食べて残りは穴に捨て、弟子たちは噛む食事、やわらかい食事を食べるやうブッダは云った。スーカラ・マッタヴァをきのこ料理と訳したが本当は判らない。遊行経にきのことあるので中村氏はきのこ料理と訳した。噛む食事、やわらかい食事は慣用表現。きのこ料理は如来以外消化できない。穴に捨てるのは、渡辺照宏説では、精神的偉人の食べ残しはタブー。スッタニパータに、自分の食べ残したものには霊力があるから消化できない、とある。
不思議な現象が起きた。まづブッダが水を汲むよういふため、濁った小川に行くと水が急に澄んだ。他宗徒のプックサが改宗し、ブッダに金色の衣を寄進した。アーナンダがブッダが着せると、皮膚が金色になり衣がくすんで見えた。二つの時において皮膚の色は清らかで輝かしい、無上の悟りを達成した夜とニールバーナの夜。プックサはかつてブッダが仙人から教はりしかし教はるものが無くなったのでブッダが去ったその仙人の信者だった。ヨガ(パタンジャリが拓いたヨガ)のヨガスートラに、八実習法を修めると神通力を得る、とある。非暴力の戒行に徹したなら、周りも敵意を捨てる。動物の鳴き声が判る等々。最後の三段階が戒定慧に当る。瞑想を極めることによって不思議な力を得る。ブッダは儀礼や超能力にたよって行った訳ではない。奇跡話が後からできたと考へる必要はないが、奇跡で法を広めた訳でもない。
以上のお話があった。私が思ふに当時は科学と奇跡の区別が今とは違った。今なら上流からの水で澄んだ、或いはこの辺りの川底の土質で瞬時に澄んだと解説できることが奇跡と捉へられることもある。釈尊の皮膚の色が精神状態で輝くこともある。瞑想を極めて科学的思考をしたことが神通力と捉へられることもある。

八月二十一日(日) 五回目は視聴できなかった
本日は五回目の放送があった。しかし川崎大師の夏季講座を聴きに行ったため視聴できなかった。土曜の昼に再放送があるが、来週に限って放送が深夜0時31分からだ。といふことで五回目は割愛した。(完)


(その一、その二)(その六)

固定思想(百十七)固定思想(百十九)

メニューへ戻る 前へ 次へ