八百七十九(甲) 県立川崎図書館で「パーソナルコンピュータの進化とネットワークシステムの変遷」を聴く

平成二十八年丙申
九月十八日(日) 県立川崎図書館
二週間前に神奈川県立川崎図書館で藤広哲也さんによる「パーソナルコンピュータの進化とネットワークシステムの変遷」といふ講演があり、聴きに行った。県立川崎図書館の特徴はまづ建物が古いところにある。これは横浜の神奈川県立図書館も同じだ。二番目に川崎の中央にある。駅と市役所の少し東側、川崎競馬と川崎競輪の並び、川崎大師と京浜工業地帯の西側。川崎市は細長いから面積の中心はずっと西側になる。しかし川崎の中央はこの辺りだ。(1)川崎の中央に、(2)古い建物で、(3)エレベータを使はず入館できて、(4)理工系図書。この四つが揃ふところに意義がある。私はエレベータを使はないと入館できない図書館は嫌ひだ。
一時、県立図書館と県立川崎図書館を廃止する案が出た。次に県立図書館は建て替へ、県立川崎図書館は市の西部に移転する案が出た。建て替へや移転するなら廃止すべきだ。

九月十九日(月) 第一部と第二部
(以下、私の知らなかった部分は紫色にしてみた。今のアプリケーション技術者と、30年前のメーカ系ソフトウェア技術者はどれくらい違ふか判る。尤もこのページを見ても今のアプリケーション技術者の知識は判らないので、紫色はソフトウェア業界の内部向けかな)第一部はコンピュータの歴史について話された。アナログコンピュータといふ懐かしい言葉もあった。乗算回路と加算回路などを組み合はせて、複数の入力端子に電圧を掛けると、結果が電圧で出てくる。演算の数だけ回路が必要だし、精度を上げるには大きな電圧が必要となる。
次いでデジタルコンピュータ、ノイマン型コンピュータについて話された。

第二部「電子部品の進化とマイクロプロセッサ」ではまづ、世界初のマイクロプロセッサi4004の説明があった。4ビットの汎用レジスタが16個もあるので驚いた。この当時はメモリではなく汎用レジスタをデータ保管に使ふといふ発想だったのだらう。i4004は次の三つのチップセットと共にシステムを構成されMCS-4と呼ばれた。
i4001:
プログラムメモリ(ROM)
i4002:作業メモリ(RAM)
i4003:出力拡張ユニット(入出力インタフェース)
ここで入出力インタフェースはシステム構成図を見るとシリアル出力または10ビットのパラレル出力とある。

1971年 インテル社が世界初の4ビット・マイクロプロセッサ4004を発表
1972年 インテル社が世界初の8ビット・マイクロプロセッサ8008を発表。精工舎の計算機S-500に採用されたが、スピードが遅く普及しなかった。
1974年 モトローラ社初の8ビット・マイクロプロセッサMC6800を発表
1974年 インテル社が8ビット・マイクロプロセッサ8080を発表
1975年 モステクノロジー社が8ビット・マイクロプロセッサMOS6502を発表
1976年 ザイログ社初の8ビット・マイクロプロセッサZ80を発表
1978年 インテル社が16ビット・マイクロプロセッサ8086を発表
1979年 インテル社が8086の外部データバスを8ビットにし、命令プリフェッチキューを4バイトに縮めた8088を発表
1979年 モトローラ社が16ビット・マイクロプロセッサMC68000を発表。ワークステーション、ミニコン分野で標準として採用される
4004と8080を例外として私の知識が1976年以降に偏ってゐることがよく判る。
MC6800はDEC社の16ビット・ミニコンのアーキテクチャーを基本に、当初はゼネラルモータースの自動車用電子制御コンピュータとして設計。MOS6502はMC6800をモデルにレジスタセットの簡素化、多彩なアドレッシングモードと良く練られたパイプライン機構を持ち、同時代の他マイクロプロセッサに対し格段に高速、77年に発売されたAppleIIに搭載されて有名になり、PET2001やCBM3032といった初期のパソコンに採用といふ話もあった。

九月二十二日(木) 第三部、その一
第三部「パソコンの歴史」では、まづ1977年に登場したアメリカのパソコン三つを紹介した。コモドール社のPET2001は、CPUが6502、RAMが8KByte、ROM BASIC(8KByte実数BASIC)、GP-IBで計測器、制御機器と接続できるため、この分野でよく用いられた。タンディ社のTRS-80は、Z80で16KByte、ROM BASIC(13KByte拡張BASIC)。アップル社のAppleIIは6502で16KByte、ROM BASIC(6KByte整数BASIC)、1980年に日本向けにカタカナ表示のAppleIIj-plus。
日本のパソコンではワンボードマイコン・キットとして1976年に東芝がTLCS-12A(99000円)、その三か月後にNECがTK-80(88500円)。後者は8080A互換のμCOM80ファミリーを使用し、16進入力キ-と8桁の74セグメントLED。
本格的なパソコンとしては77年にソード電算機システム(後に東芝に買収)が本体、キーボード、ディスプレイ、フロッピーディスク込みで150万円のオールインワン・コンピュータM200シリーズ。Z80AでRAM64KB+ROM8KB
78年に日立がベーシックマスター・MB-6880(19800円)、6800互換でRAM4KB+ROM8KB。その2ヶ月後にシャープがMZ-80K(198000円)、Z80、RAM20KB(最大48KB)、ROM4KB、BASIC ROMを内蔵せず1200bpsの高速内臓カセット。市販カセットは50bpsだった。79年NECがPC-8001(168000円)、Z80A互換、RAM16KB(最大32KB)+ROM24KB(最大32KB)、N-BASIC、セントロニクスのプリンタインタフェース。MZ-80KとPC-8001は8ビットパソコンの二大勢力になった。

九月二十三日(金) 第三部、その二
第三部は引き続き「現在のパソコン・アーキテクチャのベースとなったFM-8」と題して1981年発売のFM-8(218000円)について紹介する。
・CPUとグラフィックを独立制御する2CPUのアーキテクチャを採用
・キーボードに4ビットマイコンをコントローラとして内臓
・64KBのメモリ、48KBのビデオROMによる640×200ドット8色の表示
・アナログ入力(音声のサンプリングや計測データのデジタイズに用いられた)
・バブルメモリ・カセットの採用(DIPスイッチにより起動ドライブをバブルメモリ、ROM-BASIC、FDDから選択できた)
・キャラクタセットによる日本語表示(オプションのキャラクタセットROMを装着することで、40字×12行(文字構成16×16ドットのJIS第一水準漢字1965種と非漢字453種を表示)
画面表示にサブCPUを使ったことはFM-8からFM-11、FM-7、FM-77、FM-16βまでの富士通のパソコンの特徴だが、キーボードが4ビットマイコンと云ふのことは完全に忘れてゐた。FM-8以前のPCはCPUが画面やキーボードも扱ったのに対して、FM-8は画面がサブCPU、キーボードがコントローラ、現在のPCはいづれもコントローラといふことで、FM-8は評価された。
画面がサブCPUなのは汎用コンピュータに倣ったことだが、メモリ空間の少ないことが原因だった。

九月二十四日(土) FMシリーズ裏話
(乙)として独立

十月二日(日) 第三部、その三
第三部は続いて「パソコンOSの流れ」で、8ビットでは
1973年にデジタル・リサーチ社が、初のパソコン用OS「CP/M」を発表
*Altair8800およびIMSAI8080からスタートし、MZ-80K、PC8001、FM-8、沖電気製if-800と8080、Z80のパソコンに対応とある。ここで一つ補足するとFM-8は6809だからそのままでは動かずオプションのZ80カードを挿入する必要があった。
16ビットでは1978年にアップル社が、「Apple DOS3.0」を発表 *AppleII plusより提供
1981年にマイクロソフトが、8086対応の「PC-DOS1.0(MS-DOS1.0)を発表
(中略)
1990年にWindows3.0、1992年にWindows3.1を発表
32ビットでは、1995年にWindows95を発表
とある。補足するとデジタル・リサーチ社は8086用のCP/M-86を発表し富士通などが採用。更にマルチタスクOSのコンカレントCP/M-86も開発し、富士通はFM-16βに移植する予定だった(私は動くものを見たから試作段階までは行った)。Windows3.0(及び3.1)はMS-DOSの上で起動するソフトウェアだから純粋なOSではないが、I/OはWindows独自に作りMS-DOSのI/O機能は使っていなかったが、それでは無駄だから一部使ったかも知れない(富士通グループを退職した後なのでOSの内部は判らなくなった)。

十月二日(日)その二 第三部、その四
第三部は続いて「16bit時代とIBM PC」で、
1981年8月にコンピュータ界の巨人IBMがパソコン業界進出の第一歩として16bitパソコン「IBM PC」を発売
ただし、16bitパソコンながら、同年に発売された8bitパソコン富士通FM-8よりも劣るイメージ。
として、IBM-PCはRAMが標準16KB(最大64KB)に対してFM-8は標準64KB。テキスト表示はIBMが80桁×25行に対してFM-8は80(または40)桁×25(または20)行で同等だが、日本語表示はFM-8しかできない。フォントが別売だからFM-8も日本語表示はほとんどしないが。グラフィック表示はIBMが640×200ドット(モノクロ)または320×200ドット(4色)、FM-8は640×200ドット(8色)。外部インタフェースはIBMがカセットI/F、拡張スロット×5、FM-8はバブルメモリカセットホルダユニット(32KB×2基)、カセットI/F、プリンタI/F、RS-232C、アナログ信号入力(4ch、8ビットADC)、拡張I/Oポート。CPUがIBMは8088(4.7MHz)、富士通はmbl68a09(1MHz)が2つ。
両方を比べるとCPUを除いてFM-8の圧勝だ。CPUも6809の1MHzはZ80の4MHzと云ふ感覚があるから8088も同じだらう。6809は2つのアキュムレータレジスタA、Bを縦に繋ぐと16ビットになる。これ以外に16ビットのポインタレジスタが2個ある。8088は汎用レジスタが6個、ポインタレジスタが2個でいづれも16ビット。6809はアドレッシングモードが8088よりかなり豊富だ。異常を考へるとCPUでほぼ互角、その他はFM-8の圧勝だ。このことが富士通はFM-11で安心してFM-16βの発売が遅れPC-9801に大差を付けられることになった。
藤広さんはこののちIBM PCはオープンアーキテクチャでサードパーティが周辺機器を提供できるやうになったことを話された。そして
IBM PC/AT(1984年) 80286(6MHz)採用のフル16bit機・メモリ標準512KB・(中略)・640×350(64色中16色) 320×200(256色)(以下略)
現在のパソコンまで引き継がれる世界標準のアーキテクチャ
IBMのオープンアーキテクチャは諸刃の刃だ。このあとIBM互換機を発売するメーカが激増し価格競争が激化し、IBMを始め多くのコンピュータメーカがパソコンから撤退した。

十月三日(月) 第三部、その五
第三部は続いて「国内標準PC-9800シリーズ」で
IBM PC発売の翌1982年10月に、NECが初の16bitパソコン「PC-9801(298.000円)を発売
(中略)
グラフィックコントローラ2つを掲載し、高速な表示速度を実現
とある。グラフィックコントローラはμPD7220で、私はこれまでPC-9801の特長はCPUが8086だとばかり思ってゐた。富士通のパソコンが電算部門に移管されたのち、FM-16βにMS-DOSを掲載するときサブCPUをHALTしてしまったが、この時点で富士通はシェアでNECに完敗したばかりか、性能でも負けたことになる。

十月八日(土) 第三部、その六
第三部は最後に「32bit機とWindows」で
プロセッサアーキテクチャの先行とMS-DOSの問題
・8086はアドレスバスが20bitのため、1MBのメモリしかアクセスできない
*このアドレス空間にはBIOSやVRAMの領域も含まれるため、プログラムが利用できるのは640KBまで
・上位の80286はアドレスバスが24bitなので16MB、80386はアドレスバスが32bitなので4GBのメモリにアクセスできる。
ここで補足すると8086はプログラム上は64KBしかアクセスできなかった。コード、データ、スタック、エクストラと四つのセグメントがありそれぞれ64KBまでアクセスする。四つのセグメントレジスタの値をいろいろ書き換へると、どうにか1MBアクセスできた。なぜこんな面倒なことをするかと云ふと64KBしかアクセスできないZ80との互換だった。BIOSと云ふのはOSのI/O機能の下位部分として各機種独自に作成した部分のことだが、近年はパソコンのROMに入れてあるプログラムのことをBIOSと呼ぶことが多いが、あれは本来、ブートストラップルーチン及びハードウェア設定画面と呼ぶべきものだ。
・MS-DOSは8086を対象としたOSのため、80286や80386の機能を生かすことができない
・80286や80386の機能を活かそうとすると、膨大な8086用資産(アプリケーション・プログラム)が利用できなくなる
     ↓
MS-DOS用のアプリも実行しながら、80286や80386の機能を活かしたアプリも実行できるOSが求められる
     ↓
Windowsの登場
私はWindowsが出現した理由をMacintoshのGUI環境の真似だと思ってきたが、このやうに云はれてWindowsは単体のDOSアプリを同時に幾つも動かせたことを思ひ出す。これはメモリを2MB以上使ふからできる技だった。
藤広さんはWindows3.1とWindowsNT3.1に分岐し、それがWindowsXPで統一され、それがWindows10まで続く図を掲載された。それを見て改めて、マイクロソフトが個人用パソコンにサーバ機能を載せたことは適切ではなかったと感じた。起動が遅くなったし、余分な機能が付いた。

十月九日(日) 第四部
第四部「ネットワーク・システムの変遷」では、第一節「ネットワーク以前のバッチ処理(1950~1970年代)」で、パンチカードをカード読み取り機に掛けて、結果がプリンタに出る絵を説明された。
第二節「ネットワークの歴史(TSS:1960~1980年代)」では入力のみを行ふ端末とホストコンピュータに付属したプリンタから、入力と表示を行ふダム端末、音響カプラによる電話回線を利用した端末を説明された。日本における初期のTSSとして、1960年1月に旧国鉄が列車座席予約システム(MARS)の運用を開始したことを挙げられた。当初は下り「第一こだま」「第二こだま」、6月に下り「第一つばめ」「第二つばめ」が追加された。なぜこの話に興味を持ったかと云へば、私が小学生のころ急行の座席指定券を購入するため山手線の御徒町駅に行って発売時刻に前から二番目だったのに先頭の人が同じ急行を買ったため買へなかった、小さな駅だと割り当てが少ないと云ふ話を聞いたことがある。私が窓口に行った訳ではないので、どのやうに割り当てるのか判らないが、なるほど「こだま」と「つばめ」だけだったのかと合点がいった。ホストコンピュータから音響カプラを経由して端末に接続する絵が右にあるのでMARSはカプラを使ったのかと初めて知った。
第三節「コンピュータ同士の通信の始まり1」ではホストコンピュータ同士を専用線で結ぶ絵、「コンピュータ同士の通信の始まり2」では交換機を経由する通信回線で結ぶテレタイプの写真を説明された。この写真がタイプライタに一枚を手動でセットする印刷機能を付けたものなので、質問の時間に逓信総合博物館で体験したものは机型で大きかったと訊いたところ、ダイヤルの付いた通信機は別にあるとのことだった。家に帰ってから調べると旧電電公社による加入通信網と、国際電電による国際テレックス網があり、前者はKDDと契約することで国際通信も可能だった。後者は加入者相互の通信は提供されなかったが、末期には可能となりKDDの一部の営業所において国際公衆テレックスサービスもあったさうだ。
次の「ネットワークの歴史(パケット交換:1969年~)」ではパケット通信について話され、これは現在のインターネットにつながるから記述の必要はないだらう。なほ藤広氏はプロトコルについてTCP/IPにのみ言及されたが補足すると、パソコンLANが普及した二十五年前は世界標準となったノベル社NetwareのIPX/SPXがほとんどだった。マイクロソフトは独自のLAN製品を販売しプロトコルはNetBEUIだった。だから当時のパソコンは三つのプロトコルを選択できるやうになってゐた。その後、インターネットの普及とともにTCP/IPのみになった。

十月九日(日)その二 質問の時間
今回の講演で良かったのは、各部の終りに質問の時間を設けたことだ。私はこれまで講演会を盛り上げる質問はしても、混乱させる質問は一回もしたことがない。逆に講演者が困ったときに助け舟を出すから、私が出席した講演会はどんな質問があっても必ず成功すると云っても過言ではない。数年前の消費税増税騒ぎのときに、シロアリ民主党の路上演説にやじを飛ばしたではないかと思ふ人がゐるかも知れないが、路上演説は講演会ではない。講演会は聴きたい人が入場する。路上演説は聴きたくないのに話す。シロアリ民進党のやうな嘘つき集団にはヤジを飛ばすのが当然だ。
今回、第一部の最後の質問で、通路を挟んで私の隣の席の人がENIACより前にもノイマン型があったのではと質問し、藤広氏が回答しこの人が再質問、再々質問されたので、私が多くの書籍はENIACが最初と書いてゐますが、と助け舟を出して一件落着した。この人は、私がテレタイプの質問をして藤広氏が答へた後に、テープもあったと話され、さう云へば逓信総合博物館でもテープを記念に貰ったことを思ひ出した。だからこの人も悪い人ではなく、たまたまENIACに詳しかったので再々質問された。そんな感じだった。
パソコンが半導体から電算に移ったことを質問したが、これは藤広氏もご存知なく知らなくても当然だ。帰りのバス停で藤広氏にお会ひしたので、私は富士通の半導体だったので、と話した。他社はどうだらうと質問したのだが、帰宅の後に自分で調べることにした。すると何とNECはPC-8001と8801が半導体部門、9801は電算部門だった。私は8ビットが8001、16ビットが9801だとばかり思ってゐた。Wikipediaによると
PC-8800シリーズは、NECの半導体開発部門(電子デバイス事業グループパーソナルコンピュータ事業部)が開発しており、情報処理部門(情報処理事業グループ小型システム事業部)が開発した16ビットパソコンのPC-9800シリーズとは販売戦略が異なっていた。
とある。あと気付いたことは、当時の互換とはBASICレベルのことだった。PC-9801は8801互換のN88-BASICを搭載してゐた。
私が思ふにキャラクタベースのBASICが動くものがパソコン、動かないものはパソコンではない。この分け方だとPC-9801はパソコンだった。富士通のFM-16βはCP/M-86時代はパソコンだった。(別の分類としてアセンブラ、リンカ、デバッカの付いたものがコンピュータ、付かないものはコンピュータではない。アセンブラとリンカがいつ頃付かなくなったかはよく分らない。グラフィックベースのアプリをアセンブラで開発するのは現実的ではないからWindows95からかも知れない。私自身はMS-DOSのアセンブラは使ったことがない。デバッガはWindows7の32ビットまでは付いてゐた。64ビットで付かなくなったから最近まであった。)
パソコンのことを最初はマイコンと云った。マイコンは1チップマイコン、電源装置や入出力装置の付いたものがパソコンといふ分け方も昭和57(1982)年あたりから出てきた。NECのPC-8001のカタログを見るとNECマイクロコンピュータサービスルームBit INNが秋葉原のラジオ会館、大阪、名古屋、横浜にあるほか、NECマイコンショップがそれ以外の地域11箇所にある。いづれもNECの取引会社の運営だ。PC-9801のカタログだとNECパーソナルコンピュータサービスルームBit INNに変はってゐる。場所は4箇所で変はらない。NECマイコンショップは無くなった。富士通もショールームをマイコンスカイラブと称し、これは電算に移管したあとも残務整理で暫く続いた。二年くらい前に気付いたのだが今はマイコンはマイクロコントローラの略らしい。物は同じだが呼び方が変はった。(完)


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