八百七十三 川崎大師夏期講習

平成二十八年丙申
八月二十一日(日) <はじめに>
昨年に続き今年も川崎大師の夏期講座を聴きに行った。講師は川崎大師教学研究所教授佐藤隆一師。臨床心理学の修士を出られた後に、臨床心理士、大学准教授、地元川崎区小田の末寺住職を務める。
まづ、空海の足取りが不明のときは山で修業し、山は警察や権力が及ばずアウトロー的な修行者たちと付き合った、中国に留学したときは通訳なしで話した、といふ話ののちに<はじめに>の章を話された。配布された資料は9ページあり<はじめに>は先頭のページのうち2/3を占める。それなのにこの章を終へた時点で講演時間1時間のうち25分を経過した。
ここでは、目の周りのものは心が作り出したといふ考へ方があるとして、「とと姉ちゃん」「オリンピックの400mリレー、サッカー」の話と、「手を打てば 鳥は飛び立つ 鯉は寄る 女中茶を持つ 猿沢の池」、更には橋のない川で困ってゐた女性を背負って渡した雲水が、夜になり弟子が不満さうにする質問に明快に答へた話があった。
最後の話のときに戒律を云ふのに小乗仏教と云はれたので、ここはイエローカードだ。今の時代は上座部仏教と云はなくてはいけない。私も小乗仏教の表現を用ゐることがあるが、大乗仏教側からこのやうに云はれた場合について述べる(在日ミャンマー人向けの止観会に参加へ) ときだけだ。
佐藤師も口がすべった程度で、上座部仏教を批判しようとした訳ではなかった。浅草寺、X宗宗務院、築地本願寺、川崎大師が実施する講演会に対して、私は心から敬意を表してゐる。このやうに云ふと、今までに登壇者を批判したことがあるではないかと云はれさうだが、あれは講演料をもらって登壇した講演者に対してで、しかも東京工業大学教授だとかの肩書やマスコミによく登場する自称有名人といふ立場で、上から押し付ける話し方だったり中身が無かったりするから批判した。決して、浅草寺の信徒なので無報酬で登壇しました、とか云ふ人を批判したりはしない。より良い内容にするため批判にならない程度に感想を書くことはあるが。
佐藤師は後者の立場に近いからもちろん批判したりはしないが、そもそもそのやうな心配は無用だ。佐藤師は9ページの立派な資料を配布された。

八月二十二日(月) 資料を配られる講演
講演の始まる前から、講演が優れてゐるか劣ってゐるか判ることがある。資料を配られる講演は九割が優れてゐる。例外の一割は資料を棒読みする場合で、これだと資料が生きない。資料を配らない講演は六割が駄目だ。まづ準備をしてゐない。プレゼンソフトで説明する場合もあるが、プレゼンソフトを使ふのではなく使はれてしまふ。
今回は九ページの資料を配布された。しかも資料の棒読みではなかった。といふことで良い講演に分類されることは間違ひない。資料を配布するがそのとおりに話さないのは昔の優秀な人の話し方だった。だから私は今回の講演を聞いて、四十年前の話し方だと懐かしく思った。

八月二十七日(土) 資料の内容
<飛鳥から奈良・平安初期までの激動状況>の章について、空海の母方の阿刀氏は物部氏の一族で、蘇我氏によって滅ぼされた後、物部氏や阿刀氏の領地は法隆寺や天王寺の寺領になった、東大寺の鎮守として宇佐八幡宮から勧請され行基は若いころ山岳修行に明け暮れ流罪になったこともある、といふことが書かれる。講演では弘法大師の九顕十密といふ言葉を紹介された。
<弘法大師から学べること>の章には、早良親王事件など三つの事件に遭遇しても事態を収束させる方向に動かれたとし、
これは懐の深い人間理解の賜物でしょう。若い頃からアウトロー的な修行者たちと付き合い、彼らの中に純粋な人間性を見出し、一方エリートたちの中には打算的で卑怯な人間性をご覧になっていたのです。
とする。その根拠として、次の章の<資料集>で三つの事件について解説する。弘法大師の親戚筋の佐伯宿祢今毛人(さえきのすくねいまえみし)が早良親王事件で九州に左遷させられ五年後に亡くなった。伊予親王の変で弘法大師の叔父の阿刀大足が伊予親王の侍講だったため都を脱出して行き場がなくなり、弘法大師の俗別当(事務長)を亡くなるまで二十三年間勤め、阿刀家は明治時代まで東寺の俗別当を代々務めた。
平城太上天皇の変では
弘法大師は平城上皇と薬子が捕えられた一か月後に、神護寺において鎮護国家を祈るための密教の修法をさせてほしいという申請を朝廷に提出されました。
(中略)平城上皇とその皇太子である高丘親王は出家され、弘法大師の弟子となりその罪は問われませんでした。(中略)高丘親王は弘法大師の十大弟子に数えられる高僧真如となり(中略)現在に伝わる弘法大師の御影はこの真如の筆によるといわれています。
また、斉衡二年から続いた地震によって落ちた奈良の大仏の頭部の修理を担当されたのが真如なのです。さらに驚かされるのは、大仏の修理が終了し、開眼供養が終了した直後の貞観三年(861年)に入唐を申請し、翌年には長安に入られたばかりか、何と天竺を目指しながらも途中のマレー半島南部で遷化されました。
これは貴重な史実だ。真如の知識を得られただけでも有意義な一時間だった。(完)


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