八百八十一 不破哲三『「科学の目」で日本の戦争を考える』批評(このままでは共産党は左翼崩れになる)
平成二十八年丙申
九月二十二日(木)
第一章「戦争の性格は何だったのか」第一節
唯物論を研究する二つの団体の書籍を図書館で借りた。そのときたまたま検索で不破哲三氏の『「科学の目」で日本の戦争を考える』といふ本が引っ掛かったので一緒に借りた。この書籍によると、不破氏が国会議員になったころ日中の国交が回復した。昭和47(1972)年のことだ。翌年不破氏は
田中角栄首相に、過去の中国に対する戦争について、「侵略戦争と考えるのか、それとも別の戦争と考えているのか」と質問したのです。(中略)ところが、返ってきた答弁は、そんなことは「私がなかなか言えるものではない」という答弁です。
この当時の世界情勢で不破氏がさういふ質問をしたことに反対ではない。あの当時はベトナム戦争が東側有利に進んでゐたし、日本国内でも全国の革新知事市長が健在だったからだ。その状況下でこの質問をすることは、西側諸国も侵略戦争をしたし、植民地を独立させたのは東側の民族解放、或いはAA諸国の非同盟などの圧力があったからだ、といふ前提があるからだ。
その後、昭和50(1975)年辺りから西側が優勢になった。日本でも総評の弱体化、社会党の西欧式社民主義化が進んだ。私が社民主義化に反対するのはそれが西欧式なことだ。これでは国民に受け入れられない。
それから、一六年たった一九八九年二月、(中略)竹下登氏が首相になった時ですが、彼もまた、国会で日本の戦争の性格が問題になると、それは「後世の歴史家が判定するものだ」という田中氏譲りの答弁を連発していました。
竹下氏は師匠の田中氏を裏切ったから好きではない。しかしこの答弁は適切だ。私は次のやうに考へる。
大東亜戦争は帝国主義国どうしの植民地の取り合ひ、日華事変は侵略、満州事変と張作霖爆殺は西洋式ルールによる権益の保護、二十一箇条は侵略、朝鮮半島併合は西洋式ルールによる権益の保護、台湾割譲は侵略。
私は個人だからこのやうに意見を発表できるが、このとき竹下氏は首相だから「後世の歴史家が判定するものだ」といふ答弁は適切だ。なほ、朝鮮半島併合を西洋式ルールによる権益の保護なんてひどいぢゃないかと云はれさうだが、だから当時の西洋式ルールは悪質だと云ふのが私の意見だ。そして当時の共産主義者、植民地の住民もこれと同意見だと私は確信する。続いて不破氏は
では、ヨーロッパでヒトラーがやった戦争についてはどうだ”と追及したのです。彼は答弁に窮しました。日本の戦争は後世の歴史家に任せると言った以上、ヒトラーの戦争の方は侵略戦争だとは言えないのです。そして、ついに竹下首相が言ったのは、次の答弁でした。
ヒトラーの戦争をふくめ、「どの戦争も学問的に定義するのは非常にむずかしい」。
ヒトラーの行ったことは大部分は侵略だ。一部、第一次世界大戦の失地回復があったから、これは帝国主義国どうしの自国領争ひだ。あと、複数民族居住地域がどの国に属するかで、第一次世界大戦はロシアやドイツが不利になったから、その失地回復もあった。この場合は民族ごとに国を作るといふ西洋野蛮人の発想が原因だ。世間に流布する情報だけでもこれで100%が侵略戦争とは云へなくなった。学者が当時の情報を詳しく分析すれば更に細かく分類できる。
この質問も米ソの冷戦下で行はれたから、まだまともだった。ところがその二年後にソ連が崩壊した。その二十四年後に発行されたこの書籍は、竹下氏のこの答弁について
この答弁は、日本のマスコミはあまり注目しませんでしたが、世界のメディアには衝撃を与えました。
日本のマスコミがあまり注目しなかったのは、日本のマスコミが当時はまだまともだったからだ。不破氏は世界のメディアには衝撃を与えましたと書くが、世界のメディアとはアメリカのAP通信社のことだ。衝撃を受けたのではなく単に世界に打電しただけだ。欧米の通信社を世界のメディアと呼ぶ不破氏は、共産主義は資本主義と対立するといふ観点が完全に喪失した。そればかりではない。この第一章第一節はこの判断のできない政府は国際政治に参加する資格がないといふ見出しをつけた。ここで云ふ国際政治にアジアアフリカは入ってゐない。欧米だけだ。
九月二十三日(金)
第一章「戦争の性格は何だったのか」第三節
満州事変について不破氏は
関東軍が、勝手に始めた戦争で、そのやり方も、完全な謀略でした。
と述べるが重大なことが抜けてゐる。日露戦争の結果、南満州は日本が権益を持つ場所となった。日本は傀儡政権の張作霖に支配させたが、次第に云ふことを聞かなくなり、勝手に北京を占領しその後蒋介石軍に負けて満州に敗走しようとするときに関東軍が爆殺した。息子の張学良は蒋介石に下った。
蒋介石が反日になった理由は第一次世界大戦後の二十一箇条にある。このとき日本は日英同盟で既に帝国主義側に入ってしまった。ここまで見ないといけない。当時の帝国主義を批判するのが共産主義陣営だったのだから。
国際連盟という当時の国際組織は、(中略)日本のこの戦争は絶対に許せない、傀儡国家も認められないと決定し(中略)そして、その結果に不服だとして、国際連盟から最初に脱退した侵略国が、日本だったのです。
不破氏のこの主張はおよそ科学的ではない。ダイヤモンド社の書籍オンラインに『日本会議 戦前回帰への情念』の書評が載った。これによると
リットン調査団による報告書「リットン報告書」(中略)は、意外にも日本の立場に一定の配慮を示したものでした。(中略)日本が満洲に持つ権益を尊重した上で、独立国とは異なる形で中国の満洲地方に「自治政府」を創設して、日本人を含む外国人顧問をその自治政府に付随させることを提言していました。
リットン調査団の構成メンバーは、英仏独伊米の5ヵ国から選出されましたが、ドイツ以外はすべて海外に植民地を持つ大国でした。これらの国から見れば、満洲問題であまり日本を厳しく批判すると、自国の植民地支配にその影響が出る可能性がありました。例えば、当時の英外相ジョン・サイモンは、日本と中国の二国間で解決すべきだという日本側の主張に理解を示した数少ない人物でしたが、(中略)イギリスは別に「日本の味方」をしたわけではなく、(中略)また、日本が新興国として隆盛するまでの間、中国人の怒りの矛先は、主にイギリスに向けられていたため、日中関係の悪化はイギリスにとって好都合な展開とも言えました。
イギリスがインドやミャンマーを虫食ひ状態にして少しづつ植民地にして行った口実は謀略だらけだった。私は日本が日英同盟を結んだことも、二十一カ条を中国に押し付けたことも反対だからイギリスのやり方には反対だが、少なくとも日本に不利な条件ではない。張学良が勝手に蒋介石軍に下ったのをその前の状態に戻せるからだ。
当時、国際連盟の日本政府代表だった松岡洋右も、満洲事変勃発から8ヵ月前の1931年1月23日、帝国議会(国会)で「満蒙(満洲と内蒙古)はわが国民の生命線である」と演説したことがありました。ただし、松岡は1932年12月14日、イギリスの妥協案を受け入れて中国に多少譲歩することで、問題の幕引きを図るべきだと東京の政府に進言しており、満洲国の独立という問題の解決法に固執していたわけではありませんでした。
ところが大変な事件が勃発する。
そんな時、松岡代表を驚かせる事件が「満洲国」西部の熱河(ねっか)省で発生します。関東軍が新たな軍事行動として「熱河作戦」を開始し、(中略)国際連盟の加盟国は、まだ満洲事変や満洲国の問題をどう処理するかの話もついていないのに、関東軍が「占領地」で新たな軍事行動を始めたことは、国際連盟に対する侮辱と挑戦であると理解しました。
2月初頭、国際連盟は日本に対する新たな勧告案を作成し始めましたが、その内容を察知した日本の外務省は慌てました。(中略)日本に対する諸外国からの「経済制裁」が課される可能性が出てきたからです。
(中略)松岡代表は即座に「日本は、このような勧告案は受け入れられない」と演説して会場を後にし、日本政府は1933年3月27日に国際連盟の脱退を決定します。
この「国際連盟の脱退」という決断は、連盟を脱退してしまえば「連盟規約に基づく経済制裁」は発動できなくなるだろう、という日本の外務省による場当たり的な判断だったとされています。(中略)けれども、当時の日本国民と新聞各紙は、4月27日に帰国した松岡洋右を「英雄」のように出迎え、自国の名誉が守られたのだから国際社会で孤立しても全然構わないではないか、という威勢のいい言説が国内で主流となります。
九月二十四日(土)
第二章「どんな仕組みで戦争をやったのか-世界に例のない体制」
第二章では、統帥権の独立により政府に作戦への発言権がないことを書いた。これは同感だ。同感ではあるが、現在の日本でも似た事情はある。裁判所、教育委員会、農業委員会、公安委員会、NHKは行政からかなり独立してゐる。最高裁判事、各種委員会とNHKの委員は行政や議会が選ぶと云っても、職員やOBの天下りが幅を利かせる組織だった。そればかりではない。今でも各省庁は公務員幹部が幅を利かす。これらは放置してよいのか。
次に戦前の軍部に話を戻すと、なぜこんな組織になってしまったかと云へば、陸軍も悪いが議会も悪い。陸軍は出世競争、議会は政党内閣が確立し出した頃から他党攻撃と権力争ひ、金権になってしまった。堕落を防ぐには民主主義だと短絡させることが多いが議会も堕落する。それを防ぐのが伝統の人間関係だ。このやうに云ふと歴史の長い組織ほど堕落すると云はれさうだが、古い組織は堕落が累積するから堕落がひどいやうに見えるだけだ。だからと云って古い組織は堕落を退治する努力を怠ってよいことにはならない。
さて共産主義は伝統の人間関係を軽視する。これだと道徳破壊の殺し合ひになるから、それを防ぐため労働による生産力の社会を規定した。これだと金権はなくなるかも知れないが、権力争ひは残る。だから党の指導部を含めて仕事のローテーションをしなくては駄目だ。それのできない日本共産党が共産主義を掲げるのは詐称ではないのか。
九月二十六日(月)
第一章「戦争の性格は何だったのか」第五節
第一章に戻ると第五節に
要するに、ヨーロッパとアフリカはドイツ、イタリアのもの、「大東亜」、すなわち東アジアと西太平洋地域は日本のもの、ソ連とアメリカ大陸は別として、地球のそれ以外の地域は、三国で全部分け取りしてしまおう、こういう条約を結んだのです。
帝国主義の歴史でも、世界を三国のあいだで分け取りしようという、こんな横暴無法な条約を結んだ例は、前にもあとにも、ほかには例がありません。
不破氏は重要なことを忘れてゐる。あの当時は、ソ連とアメリカ大陸とヨーロッパを除いて、残りはほとんど植民地だった。植民地ではないのは中国、タイ、日本だけだった。タイはイギリスとフランスの植民地に挟まれて緩衝地帯として生き延びた。中国は西洋列強によって虫食ひ状態、アヘン漬けにされたが、後からのこのこ日本が進出したためイギリスなど本場の帝国主義国に敗北した。北米はイギリスの植民地が独立したものだし、南米はスペイン人、ポルトガル人が先住民を支配する地域だった。ソ連はロシアがシベリア地方の先住民族地域に入り込んだものだ。
地球上をこんな不正常な状態にしたのが西洋列強だ。こんな横暴無法な状態は、前にもあとにも、ほかには例がない。このやうな状態で平和が保たれるはずがない。世界大恐慌はその例だ。植民地を持てる国が輸入を制限したため、植民地を持たざる国は大変なことになった。そして植民地の再配分を狙って戦争になった。不破氏の主張は、暴力団どうしの抗争で、一方が正しくてもう一方はけしからぬと主張するやうなものだ。
更に重大なことがある。第二次世界大戦の後も、連合国側は植民地の独立を認めなかった。ベトナムのディエンビェンフーの戦ひの後あたりから、これは大変なことになると反共を条件に独立を認めるようになった。このことは共産主義の功績だ。共産主義国があったから、帝国主義は植民地を手放した。なぜ共産党の不破氏はそのことに気付かぬのか。
九月二十七日(火)
第二章「どんな仕組みで戦争をやったのか-世界に例のない体制」第二節
東京裁判で東条英機は真珠湾攻撃について
自分は首相だったが、この決定には参加しておらず、一二月二日ごろ、参謀総長から陸軍大臣の資格で聞いた、と答えました。
真珠湾攻撃の作戦方針が決まり、天皇の承認を得て作戦命令が出たのは一一月五日、それを受けて連合艦隊が千島・択捉島の基地を出発したのが一一月二六日、しかし、これらはすべて政府の知らないところで進んでいた行動でした。
これだけ読むと奇怪だが、政府の開戦決定までは、準備行動は演習と同じだ。ましてや海軍のすることを陸軍がぎりぎりまで知らないのはあり得る。作戦は軍人に任せて政府は関知しない、政府としては勝ってくれればよいと云ふのはあり得る。現在でも民間会社で、新製品開発は事業部に任せる、会社としては事業部単位で利益を上げてくれればよい、といふやり方がある。実際には総力戦だから政府と軍部がばらばらでは駄目だし、陸軍と海軍がばらばらでも駄目だった。
なぜこんなことになったかと云へば、ヨーロッパの猿真似、特にドイツの憲法を参考に日本の憲法を作ったからだ。その後、ドイツが第一次世界大戦に負けた時点で、日本の憲法は改正すべきだった。或いは朝廷軍が鎌倉幕府に敗れたり、南朝軍が足利幕府に敗れた歴史から、軍を天皇に直結させることの是非を検討すべきだった。
欽定憲法でも世論が盛り上がれば改定はできる。マスコミと議員の怠慢と云ふしかない。共産党が戦前に活躍できなかったのはロシアの猿真似が原因だ。皇帝一家を処刑したロシアの真似は絶対にしてはいけなかった。ソ連崩壊二十四年後に書かれたこの部分から今度は逆に、日本はイギリスやアメリカの真似をすべきだったとしか読めない。
九月二十九日(木)
第三章「兵士たちはどんな戦争をさせられたか-半数以上が餓死者」
第三章は次の内容で始まる。
ここに一冊の本をもってきました。(中略)藤原彰さんという歴史学者の本です。この人はただ戦争の歴史を研究した歴史学者というだけの人物ではないのです。経歴を調べてみますと、私が東大に入った年・一九四九年に、東大文学部の史学科を卒業していますから(以下略)
多くの読者は共産党員とその支持者を除いて、この文章に二つの慢心を感じることだらう。一つは東大卒を不破氏が云ひたいのではないか、二つ目は四十五年間共産党の書記局長、委員長、議長、党付属社会科学研究所所長を務めた不破氏の出た大学だから東大は優れてゐると云ひたいのではないか。本当の共産主義者なら、生産力こそすべての源泉だから労働者農民こそ一番だ、と考へなくてはいけない。
この章ではこののち、補給を軽視したことを批判するが、そのやうにしたのは陸軍大学を出た連中だ。終戦で軍部エリートはゐなくなったが、内務省などの官僚エリートの仕組みは今でも残存する。その中心が東大だと不破氏は思はないのか。
日本軍のこの実情に対比して、私が驚いたのは、ヒトラーの軍隊でも、兵士に戦時国際法を徹底していたという事実を知ったことでした。
まるで丸山真男の日本のファシズムはドイツやイタリアのそれより劣ってゐるといふ主張を思ひ出すが、なぜさうなったかと云へば、西洋の都合の良い部分だけを取り入れるからだ。
私がシロアリ民進党(当時は民主党)の消費税増税に絶対反対なのは、消費税率だけ真似して、企業内労組といふ日本特異の制度は残すからだ。税率を真似するなら労組も職能別に変へる、労組を変へないなら消費税を3%に下げる。日本経済を立て直すにはどちらかしかない。
それにしても共産党がなぜシロアリ民進党と選挙協力するのか不可解だ。口先はともかく腹の底では消費税増税を何とも思ってゐないのだらう。
九月三十日(金)
第四章『国民がどんな扱いを受けたか-国民の命より「国体護持」』その一
第四章は
今年(二〇一四年)六月、アメリカのカリフォルニア州立大学の研究者たちがきまして、私へのインタビューで日本の戦争についていろいろと聞かれました。
世界にはたくさんの国があるから、アメリカ、ロシア、中国、インドといった大国を始め、アジア、欧州、アメリカ大陸から研究者が聴きにくるとすれば、丁寧に対応すべきだ。ところが不破氏はアメリカだけを取り上げる。ここまでで二通りの解釈ができる。西洋崇拝か米英仏蘭崇拝だ。
そのなかに、”ドイツでは国民の戦争責任とかが問題になっているが、日本ではどうなのか?”という質問がありました。
ここでドイツの話を削除して同じ質問を受けたらどうなるか。全然印象が異なる。ドイツを入れることで、世界で日本だけが異なると云ふ印象を無意識に挿入してしまふ。しかも世界は欧米だけではない。アジアアフリカ南アメリカを無視して欧米の国名を挙げて世界中にしてしまふのはマスコミがよく用ゐる手口だ。不破氏は二つの解釈のうち西洋崇拝であることが明らかになった。不破氏はこの質問に対して
私は、この問題では、日本はドイツとは全然事情が違う、と答えました。ドイツは、ヒトラー政権が成立した当時は、国民が選挙で政権を選ぶ権利をもった共和国でした。
ここで問題なのは「国民が選挙で政権を選ぶ権利をもった共和国」の部分だ。権利と義務は一体だ。政権を選ぶ権利を持つことは、正しい政権を選ぶ義務も生じる。しかし両方書くと文章が煩雑だから普通は「国民が選挙で政権を選ぶ共和国」と表現する。権利ばかりを主張するのが、不要なところにある労組もどき(ユニオンショップや公務員の企業別労組は労組ではない)とシロアリ民進党だとこれまで思ってきた。しかし不破氏にもその傾向がある。
これにたいして、専制体制下の日本では、国民が首相を選んだことは一度もない。だいたい首相は天皇が任命するもので、国民が選ぶものではない。そこがドイツとの一番の違いだという話をしました。
不破氏はまづ国会の存在を無視した。次に、国会が首相を選出すると三権が分立しないから戦前の仕組みも悪くはないではないか。菅や野田のやうに首相になることだけが目的の人間が出てこないのはよいことだ。戦前に菅野田型の人間が出なかったのは、首相に国務大臣罷免権がないこと、陸海軍大臣現役制、統帥権の問題があったためだか、これらが戦後並みに改善されたとしたら、首相になることだけが目的の人間が徐々に出てくる。元老に根回しをするなどの人間だ。だから三権分立のため戦前の仕組みも悪くはないが、菅や野田みたいな人間が出た場合は無力となる。
一番よいのは弊害が出たら選出方法を変へることだ。まづ国会が選び年月を経ると菅や野田みたいな人間が出てくる。さうしたら全国知事会議で選ぶやうにする。全国の知事の中から選ばれることが多いから、都知事候補を辞退してシロアリ政党の代表になるといふ女は出て来ない。そのうち首相になりたくて知事になる人間が出てくる。さうしたら大統領選挙みたいに国民投票で選ぶ。次がどの方法になるかはそのとき決める。占ひでもおみくじでもコンピュータの乱数でもよい。
十月一日(土)
第四章『国民がどんな扱いを受けたか-国民の命より「国体護持」』その二
不破氏は、国民が首相を選ばないことがドイツとの一番の違ひだと述べたあと
実際、日本は世界でファシズムが問題になる以前から、民主主義と平和の言論及び行動を徹底的に抑圧した国でした。日本共産党は、一九二二年、その体制下で生まれ、侵略戦争反対、専制政治・軍国主義反対でたたかい抜きました。世界の所要国で、共産党が、創立の最初から第二次世界大戦の終結の日まで、ずっと非合法だったという国は、日本以外にはありませんでした。
まづ明治時代の民党への弾圧は大変なものだったが、不破氏の話はそれとは異なる。大逆事件は前に調べたことがある(日本アナキスト労働運動史を読んで )。それによると
一九〇六年(明治39)、岩佐佐太郎・赤羽巌穴ら在米邦人は、幸徳の感化をうけて「社会革命党」を結成し、(中略)〇七年(明治40)一一月三日(天皇誕生日)を期して、岩佐らの「福音会」は公開状「睦仁に与うるの書」を発し、日本各地にかなりの部数を送った。この声明は、天皇が征服者・支配者・搾取者である実体をあばき、(中略)革命は必然であり、国際的なつながりをもつテロリズムによって、天皇に反抗すると述べている。
その結果が大逆事件の弾圧につながった。
この天皇制攻撃第一号は、明治政府に道鏡以来の不祥事件としてショックをあたえた。
(中略)のちに逸見直造・善三父子は、
「幸徳らを殺す動機を作ったものは岩佐である。」
と談じ、岩佐に、
「生きているうちに、"暗殺主義"時代の事情と責任を明らかにせよ。」
と再三迫った。だが岩佐はついにこの間の事情については黙したまま、六七年(昭和42)二月に世を去った。
同じことが共産党にも云へた。ロシア革命が皇帝一家を処刑したからと云って、日本で真似してはいけない。西洋のやり方をそのまま真似して大変な目にあったのがアナーキスト、日本共産党、あともう一つ明治から昭和までの軍部だった。
不破氏の発言でもう一つ指摘しておかなくてはならないことがある。共産党が創立の最初から第二次世界大戦の終結の日までずっと非合法だったと云ふが、西洋で合法だったのはマルクスの時代だったり、国内での活動実績から合法化せざるを得なかったり、つまり鉄道で云へば発車前と駅に着く直前だ。ロシア革命の後に日本で今まで実績がないのに真似することは、高速で走行する新幹線に飛び乗るやうなものだ。ここでも日本の事情に合はせなかった弊害が現れた。国民から支持される運動なら逮捕や集会の中止はあったとしても徹底的な弾圧は受けない。
十月二日(日)
第四章『国民がどんな扱いを受けたか-国民の命より「国体護持」』その三
戦争末期に建設中の松代大本営に宮内省の役人が来て、三種の神器を置く場所を尋ねた。
現地の工事事務所の代表が、天皇の部屋の隣にその置き場をつくっていると答えたら、その役人は「とんでもない」と色をなして怒った、というのです。「陛下には万一のことがあっても、三種の神器は不可侵である」、こう言って、もっと安全性の高い場所に移せと命令した、こういう経過が工事主任の書いた記録に残されています。
これについて不破氏は壇ノ浦合戦の時代とまったく変はらないと述べたあと、次の発言で第四章を終了する。
一億国民を犠牲にしても「国体」を護持せよ、というのが、当時の戦争推進派の叫びでしたが、その「国体」とは結局、あの三つのモノなのです。そのモノを護持するために、敗戦に敗戦を重ねても戦争継続に固執し、(中略)「一億玉砕」、「本土決戦」を叫び続けたのです。まさに、日本の戦争指導部とそれをかかげた旗印の”正体みたり”ということではありませんか。
この現象こそ伝統を軽視したことの副作用だ。明治維新の前まで、日本では仏教、儒教、神道が調和してゐた。明治維新と日清戦争、日露戦争で天皇教とも云ふべきものになってしまった。本来は国会と言論がそれを補正すべきだができなかった。共産党が国会と言論に加はれなかったのは、弾圧されたせいもあるが弾圧されるやうな主張をしたからだ。今回も「あの三つのモノ」なんて云ってゐるやうでは駄目だ。
自動車が自損事故を起こすのは、道路が悪い場合もあるが普通は運転者が悪い。共産党が弾圧されたのもロシアの真似だったためで日本独自のやり方を考へるべきだった。道路(公安)が悪いか運転者(共産党)が悪いかは、戦後を見れば判る。合法政党になったにも関はらず議席は低迷したままだ。それでも昭和四十年代は票が社会党に流れた。今は社会党がないのに共産党は低迷してゐる。
十月二日(日)その二
今後マルクスの理論を生かすには
マルクスは数ある社会主義理論家の一人に過ぎなかった。たまたまマルクスの理論を信じるレーニンがロシア革命で政権を握ったため、マルクスが有名になった。だからソ連と東欧が崩壊した今となっては、マルクスの云ったことすべてが正しいと考へてはいけない。卓越した学者として、正しい部分を活用すべきだ。
それ以上に大切なことがある。ソ連が帝国主義各国と対決するために民族解放を掲げた。孫文やホーチミンがソ連を頼ったのは当然だった。そしてここからが大切なのだが、日本で共産主義に人気が集まったのはその流れに沿ってのことだ。日本共産党は西欧の社会民主主義を真似してはいけない。その行く末は村山富市以降の社民党で明らかだ。日本共産党は日本の信条に合った社会主義を目指すべきで、それには日本が劣って西洋が優れてゐる、或いは日本が間違って米英仏蘭は正しいなどと考へてはいけない。
社会主義が出てきた理由は資本主義に反対してのことだ。ここで日本共産党のすべきは、自然経済には反対せず資本主義には反対する。この姿勢が必須だ。日本は平成元年辺りまでは資本主義ではなかった。株主は自己主張しないし、失業者はほとんどゐなかった。次に多数決は民主主義ではないことを主張すべきだ。共産主義者を含めて多数決は正しいと思ってゐる人は多い。共産主義者の場合、労働と生産の理論に立てば、私欲問題が解決するから搾取や権力闘争はなくなる、との立場でなくてはいけない。(完)
(國の獨立と社會主義と民主主義、その百六十八)へ
(國の獨立と社會主義と民主主義、その百七十)へ
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