四百六十二、1.歌舞伎鑑賞記、2.日本のPTAは一旦廃止を


平成25年
八月三日(土)「八月納涼歌舞伎」
歌舞伎座の八月納涼歌舞伎を観た。子供の通学する高校のPTA行事である。歌舞伎座は建て替へる前に幕見席で一回観たことがある。その数十年前に高校のとき国立劇場で歌舞伎教室を学校行事として鑑賞した。といふことで今回で三回目である。しかし初心者だと思つてはいけない。テレビやYoutubeで十分に鑑賞してあつた。だから歌舞伎特集を組んだし、白浪五人男の現代版シロアリ五人男まで作つた。
同じやうな例に浪曲がある。木馬亭は三回しか行つたことがないが、神奈川県立図書館で浪曲のCDを数十枚借りたり図書館で視聴した。そして浪曲特集を組んだ。

八月四日(日)「三階A席」
今回は三階A席(5000円)である。ここはよい席である。舞台の天井と同じ高さなのに舞台がすぐ近くに見える。前回は幕見席だつたが同じ三階でもこれだけ違ふのかと驚いた。前回は役者が小さくしか見えないので二階で見なくては駄目でそれだと一万円以上すると否定的な見方だつたが、今回は肯定的である。五千円でこれだけ見られるなら国内はもとより世界で通用する。
音響のよさも歌舞伎座の特長である。天井を見上げると照明の覆ひが特殊な形をしてゐる。あれは音響をよくするために設計されたさうで、これはすごい。歌舞伎はマイクは使はないのださうだ。ごくまれに役者の声が出ていないときや掛け合いのときに差がありすぎるときは天井のスピーカから判らない程度に流すことがあるらしい。芸能はこうでなくてはいけない。マイクを使ふものは芸能ではない。テレビ「あまちゃん」にも登場するが口パク、代理、音処理なんでもありだからである。
私も常連客に混じり「中村屋」「成駒屋」「加賀屋」と掛け声を掛けた。幕見の常連以外で掛け声を掛けたのは私以外では三人くらいだつた。常連以外の一般客が声を掛ける。これが服部幸雄著「江戸歌舞伎」にいふ役者と観客が一体になることではないか。「待つてました」といふ掛け声が一回あつた。河原崎長十郎によると勧進帳を待ちわびた掛け声だから私は掛けなかつたが一回くらいはあつてもよい。

八月五日(月)「県労委での掛け声」
昨年或る県の労働委員会で二回掛け声を掛けた。終はつた後で組合員から「県労委では野次を飛ばしてもいいのですか」と質問があつたので、「裁判と同じで野次を飛ばしてはいけない。しかし進行を妨げず周りも納得する野次なら飛ばしてもいいことがある」と説明した。
このときは会社側証人の主尋問が終はり、労組側の反対尋問に移つた。会社側証人が質問にきちんと答へないから質問者が少し声を荒げ会場がざわついた。そのとき私が「きちんと答へろ」と掛け声を掛けた。公益委員も「質問者が言つたのかな」くらいでそのまま進行した。
証人がきちんと答へないから類似した質問が続いた。会社側弁護士が抗議し組合側が「あなたもさきほど同じ質問を繰り返したではないか」と反論し言ひ合ひになつた。組合側が弁護士を皮肉つたので「はははは」と掛け声を掛けた。笑つたわけではなく「はははは」と声を掛けたのだが、笑ひ声だといふことでそのまま進行した。

八月六日(火)「解説のイヤホン」
演目は「野崎村」と「春興鏡獅子」であつた。解説のイヤホンは便利である。「野崎村」では祝言を控へ大根をいそいそと切るところで、なるほどと思ひながら観劇した。「春興鏡獅子」では獅子が踊るとき、横で胡蝶二人もぐるぐる回つて踊るところが印象に残つた。

前回の「四百二十一、三原橋と歌舞伎座」では、書籍に書かれた内容を元に明治時代の演劇改良運動を批判的に書いたが、風紀を乱す内容であれば改良したほうがよいし、劇場の規模もこれくらいが良いのかと思つた。もちろん小さいほうが良いが入場料との兼ね合ひである。
過去に二回観劇したときにあまり印象に残らなかつたのは、一つには解説のイヤホンを使はなかつたためだ。二つ目は幕見席はあまりに遠すぎる。小さくてよく見えない。三つ目は今回は掛け声に参加した。舞台と観客が一体になる。これが歌舞伎の要諦である。

八月七日(水)「邦楽」
歌舞伎を観ることで邦楽に慣れるといふ利点がある。西洋の音階に縛られる限り、非西洋地域の音楽は退廃に向ふ。かつてラヂオから民謡、浪曲が流れたが今は少ない。さうなつたのも西洋の音階を自働に押し付けるからだ。
小学校三年までは日本音階に慣れる。西洋音楽は四年以上で習ふ。これがよい。あとハーモニーも低学年では習はないほうがよい。ハーモニーは悪魔の響きである。なぜなら音程が縛られるからだ。アジアでは音程が広い。レはド♯の少し上からミ♭の少し下まで幅がある。

邦楽といへば浪曲がある。浅草の木馬亭は月に十日間定席があつたのに昨年一月から七日間に減つた。衰退の一方である。木馬亭は歌舞伎座を見習ひマイクを廃止すべきだ。

八月八日(木)「良心的な施設」
歌舞伎座は良心的な施設である。歌舞伎座ギヤラリーも充実してゐるし、人数限定でま組み席の更に後方を見学することができた。五階、四階、地下広場の土産物店も華やかである。
事業には、(1)価格を適正にして良心的な場合と、(2)価格を下げて非良心的な場合がある。もう一つ下請けなどで(3)価格を下げて良心的にせざるを得ない場合もあり本当はこれが一番多いのかも知れない。
歌舞伎座は典型的な(1)である。三階A席なら十分楽しめるし、施設も良心的である。

八月十一日(日)「日本のPTAは一旦解散を」
今回の歌舞伎座観劇はPTAの行事で昨年まではミユージカル観劇だつた。今年の参加費は5250円である。しかし実際は入場料が五千円、昼食が二千円、解説イヤホンが七百円で7700円掛かる。2500円がPTA会費からの補助である。この事実を知ると素直に喜ぶことはできない。
PTAは学校と保護者が連絡を取り合ふ大切な場である。かつては教育予算の限られた中で保護者が学校やクラブ活動を援助しようとする意識もあり、それはそれで貴重なことである。しかし継続すると既得権になる。教育予算はPTAからの援助をあてにするやうになる。昨年からPAT活動に昼食代が復活した。私が活動をしてゐたときはなかつたが、昨年から午前と午後にまたがつて活動したときは昼食代が支給されるやうになつた。
保護者のなかには生活の大変な人もゐる。といふより大変な人のほうが多い。私の所属した予算があるといふことで無駄な出費が多く心が痛んだ。今のPTAはうるさ型の母親が学校に発言の機会があり、その代はり学校の教育活動に援助するといふもので、それは大多数のおとなしい会員の会費を使ふことにほかならない。日本のPTAは一旦廃止し、教師と保護者の連絡組織としての機能を再構築する必要がある。(完)


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