四百七十三、国民歌手藤圭子(今こそ日本に演歌の復活を)
平成25年
八月二十四日(土)「藤圭子は日本が世界に誇る国民歌手だつた」
これまで藤圭子はあまり好きな歌手ではなかつた。「新宿の女」「圭子の夢は夜ひらく」の印象が強いのと、アメリカに長期在住したからである。金持ちや芸能人でアメリカ在住といふ連中がときどきゐるが本当に嫌ひである。
しかしYoutubeで「長崎ブルース」「柳ヶ瀬ブルース」「京都から博多まで」「歌謡浪曲/刃傷松の廊下」「歌謡浪曲/番場の忠太郎」を聴いてみると、藤圭子は藤山一郎などと並ぶ国民歌手だと判る。特に歌謡浪曲は三波春夫の女性歌手版とも言ふべき存在である。浪曲師の父親、三味線演者の母親の芸を受け継いだ。
八月二十五日(日)「手術後」
国民歌手とは大袈裟ではないかと思ふ人もゐよう。しかし専門家も私と同意見である。作曲家の平尾昌晃氏は「ひばりさんに次いですごいのがでてきたと思つた」と語る。
藤圭子の魅力はしわがれ声にある。どすの利いた声と表現するメディアもある。しかしポリープの手術を受けて普通の声になつてしまつた。その後の歌を聴くと曲の中にかすれた部分やどすの利いた部分はある。しかし全体では普通の声である。ポリープの再発を心配して安全運転或いは西洋式の発声に変へたのかも知れない。
浪曲はその前身を含めて長い歴史がある。しわがれ声になつてからが名人である。藤圭子が手術を受けた理由は不明である。西洋式の発声が魅力に感じたのかも知れない。当時は歌手への手術例が少ないから影響が判らなかつたのかも知れない。日本と西洋を混ぜた悲劇である。
八月二十五日(日)その二「現場訪問」
昨日の午後、自殺現場に行つてみた。事件の翌日である。十二社通りから一本入つた路地で二週間前に偶然この路地を歩いた。テレビで車道が一平方メートルくらい濡れた場面を映し、血を水で洗い流したあとがまだ残つてゐます、と報道したからすぐ判つた。
歩道に花束が二十本くらい積まれ周りにドリンク剤や飲料水などが置かれてゐた。現場に来たばかりで手を合はせる人、一方通行の反対側歩道に座る四十代くらいの男性もゐた。暫くするとテレビカメラを持つた男と助手が来て撮影を始めた。現場から10mくらい離れたところで駐車した車を運転した男が外に出て、アナウンサらしい人がマイクを向けてゐた。現場にゐたのは全部で十数人ほどだつた。
私は10分ほど現場にゐただけだが、十二社通りに面したマンシヨンの住居者用入口の豪勢な自働扉を写真に撮る人もゐて、かつては藤圭子ファンが多かつたことが偲ばれた。
八月二十六日(月)「音楽プロデューサ」
手術後もしわがれ声の部分やどすの利いた部分はある。歌唱自体も一流である。しかし引退とアメリカ在住と復活を繰り返すうちに歌唱力が大きく落ちた。レコードだと悪くはないがテレビだと最初きちんと口が回らないのではと思ふことや、美空ひばりの真似かも知れないが声を変へた部分が変だつたりした。レコードは何回も録音するしレコード会社のプロデューサがゐるから大丈夫だがテレビは駄目である。
音楽をプロデュースする人が必要ではと思つた。藤圭子もさう考へたに違ひない。だからアメリカで音楽プロデューサの二番目の夫と結婚した。圭子自身は復活できなかつたが宇多田ヒカルを世に送り出した。なを私は宇多田ヒカルの歌を聴いてもどこがよいかまつたく判らない。聴いてゐて不快感はないのだが耳を素通りして頭に何も残らない。世代の相違であらう。
八月二十七日(火)「徳川家光と同じに」
元夫の宇多田照實氏によると、ヒカルが5歳になつたとき周囲に対して攻撃的になり、しかしすぐに「ゴメン、また迷惑かけちゃったね」と気が変つた。
ここで思ひ出すのは徳川三代将軍の家光である。生まれたときから将軍家だつた家光はわがままで、或るとき入浴時に小姓にお湯をかけろと命じた。熱いので水を入れてからと思つたがあまりの剣幕に思はず将軍に掛けた。熱いので将軍は激怒し切腹だと言ひ出した。老中は慣れたもので聞へなかつたふりをしてもう一度聞き返すと次は気が変つて軽い罪になつた。
藤圭子は十代で有名になり大金も手に入れた。人間の成長は二十代、三十代、四十代、五十代と続く。藤圭子は十代で止まつてしまつた。一億総白痴と呼ばれたテレビは芸能人も蝕んだ。
八月二十八日(水)「演歌歌手」
私は演歌は好きではない。男女関係のどろどろしたものを歌ふ歌詞が多いからだ。藤圭子は自分の歌だけではなくほかの人の持ち歌もたくさん歌ひレコードやCDに残つてゐる。「港町ブルース」も残つてゐる。
演歌は長所が5点または10点の加点、短所は1点の減点である。「港町ブルース」は曲が良いのと、函館から鹿児島まで港の名が登場して大きく加点される。だからどろどろした歌詞の小さな減点を打ち消す。個々の作品は流行するも演歌全体は衰退する。
「圭子の人生劇場」に収録された「船頭小唄」を聴くと、引退やアメリカに在住せず演歌の衰退を止めてほしかつたと強く思ふ。どろどろした歌詞は演歌の堕落であり、それを改善すれば日本の文化に合つてゐる。
八月二十九日(木)「新宿の女」
藤圭子は「新宿の女」で世に出た。亡くなるのも新宿だつたと書いたマスコミは多いがこれは違ふ。山手線は東京市(当時)の外をぐるつと回る形で作られた。だから本当の新宿は新宿駅よりずつと内側の伊勢丹の手前から四谷大木戸までである。
そのことに気付いたのは中学生のときまで走つてゐた都電の停留所名である。新宿の大ガートから内側に向つて
新宿駅前
角筈
四谷三光町
新宿三丁目
新宿二丁目
新宿一丁目
と続く。角筈は新宿駅の外側と内側にまたがる地名で豊多摩郡淀橋町だつた。昭和七年東京市に編入され淀橋区になつた。新宿は四谷区である。昭和二十二年四谷区、牛込区、淀橋区が合併して新宿区になつた。
角筈の更に外側が淀橋で藤圭子が住んでゐたマンションは此処にある。昭和四十五年に住居表示が変はり新宿区西新宿になつたが、「新宿の女」が発売されたのは昭和四十四年だから、西新宿のできる前である。
昭和四十年代の新宿の飲み屋街はまつたく知らないが、昭和五十年前半に首都圏の或る大きな駅の駅前にどぶ板のある飲み屋街があつた。翌年あたりに工事が始まり首都圏でも有数のショッピング街、オフィス街になつてしまつた。だから壊すのを前提に昭和四十年代の雰囲気であつた。たまたま昼間そこを通ると猫がゐて疲れた感じの女が「よしよし」といふ感じで残飯をやつた。今から考へると「新宿の女」とはこのような女性かも知れない。
「新宿の女」が人気を博したのは、多くの国民の生活も「新宿の女」より少しよい程度だつたからだ。自家用車なんて無理だし、海外旅行も無理だつた。
八月三十一日(土)「週刊誌の記事三題」
或る週刊誌が、あの時代は皆が貧しかつたから「新宿の女」が流行したと書いた。この記事には半分賛成で半分不賛成である。あの時代は既に東京では都電が次々に廃止され、その理由は道路に自動車が増へ続けたためだ。決して貧しくはなかつた。
別の週刊誌に藤圭子の兄で元歌手の藤三郎氏の発言が載つた。新宿警察署に行つたのに話をはぐらかされて妹に会はせてもらへず、誰もゐなければ身元引受人になると言つたのにその必要はないと言はれたさうだ。私も2ヶ月前に新宿警察署に出頭した。といふのは冗談で新宿駅前の靴屋に行つたら迷惑メールが来るやうになつたので相談に行つただけである。新宿警察署は昭和四十四年に淀橋警察署を改称した。だから今でも新宿一丁目、二丁目、四丁目の全部と、三丁目、五丁目の大部分は四谷警察署の管轄である。今でも淀橋警察署のほうがあつてゐる。
私は宇多田父子の書いた内容を信じてゐるが、宇多田ヒカルの人気を落とさぬように圭子の病気にすべてを押し付けた気はする。藤圭子と宇多田ヒカルの人気が圭子と母、圭子と兄、圭子と宇多田父子の仲を破壊したといへる。テレビの犠牲者である。
更に別の週刊誌に、全共闘世代は藤圭子のファンになつたと言はれるがそれはまつたくの嘘だといふ主張が載つてゐた。藤圭子は、ギターを持つ姿と、着物を着た演歌歌手の二つの顔を持つ。実際はその中間で洋服で演歌を歌ふことが多い。もし全共闘が藤圭子のファンなら現在の左翼崩れのように日本を破壊する主張はしないはずだ。尤も左翼崩れは全共闘崩れである。本当の全共闘は安保反対闘争でアメリカに反対し、成田空港反対闘争で農民と共闘し、ベトナム戦争反対でアジアの連帯を示した。演歌歌手の藤圭子とは一体である。
八月三十一日(土)その二「圭子のわらべ唄」
Youtubeで「圭子のわらべ唄」から宮城のこもり唄、あんたがたどこさ、どしょっこふなっこ、かぞえうたを聴いた。表紙は古い寺の境内でわらべの着物姿の藤圭子の写真が載つてゐる。
日本ビクターから発売されたこのレコードは勿論営利のための商品ではあるが、昔の歌手は社会の役にたつてゐたことがよく判る。レコード会社に言ひたいことがある。今後発売する演歌はどろどろした内容ではなく社会の役に立つ歌詞にすべきだ。曲自体は既に社会の役にたつてゐるのだから。(完)
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