百十四(その一)、浪曲と講談の復興を

十一月十六日(月)「国民の教育と娯楽」
浪曲と講談は戦後、衰退の一途をたどっている。これは社会に対してどのような弊害があるかを考え、復興の方法を探ろう。

十一月十八日(水)「芸能人を十人集めたら」
芸能人を十人集めたら、歌舞伎俳優、講釈師、浪曲、邦楽、噺家、演劇、演歌歌手等々。少なくとも二割は講談と浪曲が占めるべきだ。しかしそうはなっていない。テレビタレントと歌手が多すぎる。彼らは今のところ社会の役に立っていない。100%が娯楽である。しかもマイクとスピーカーがあって始めて成り立つ。

日本語を書くとき、話すときには講談の名調子を学ぶべきである。社会生活を営むには浪曲の人情に学ぶべきである。講談と浪曲は寺小屋とともに長らく日本人の教育に貢献をしてきた。

十一月十九日(木)「マスコミの三権分立を」
浪曲と講談が廃れた原因は、GHQとテレビである。まず終戦直後にGHQは仇討ちなどの上演を禁止した。
次に、テレビが現れた。一億総白痴という言葉が流行った。テレビは石油消費と引き換えである。地球温暖化を防ぐにはテレビという無駄なエネルギーを消費する余地はない。いずれ廃れよう。

その前に今の民放テレビ局はよくない。新聞社のひも付きである。新聞社は朝日、毎日、読売、産経などどれもアメリカかぶれである。新聞社とテレビ局は資本を分離すべきだ。
マスコミにも三権分立が必要だ。新聞とテレビと週刊誌は互いに相手を批判すべきだ。

十一月二十一日(土)「小中学校は文語と邦楽を教えよ」
文語の下地があればこそ口語の名調子が生きる。邦楽の土台があればこそ浪曲のよさがわかる。

小中学校では文語の教科書を用いるべきだ。音楽はまず邦楽を教えるべきだ。楽器は三味線と琴と笛を用いる。その上で西洋人という世界中を植民地にした野蛮人の音楽はこういうものだと教えるのはよいことである。
今では欧州人は植民地を解放し野蛮人ではなくなった。しかし国自体が植民地のアメリカが残っている。日本では拝米派という珍妙な連中がいるため、平衡を取るために野蛮人といい続ける必要がある。

十一月二十二日(日)>「多数の名作」
浪曲には次のような名作がある。(安斉竹夫氏「浪曲事典」より) 講談にも次のような名作がある。(藤田洋氏「おもしろ講談話」より) これらの多くがGHQによって上演禁止となった。そのため戦後しばらくはやくざ物と恋愛物ばかりとなった。

十一月二十四日(火)>「国民的人気だった浪曲」
浪曲は戦前戦後を問わず国民の間で大変な人気だった。唯二郎氏の「実録浪曲史」には次のように書かれている。

十一月二十六日(木)「戦後の浪曲人気」
前回も引用した「実録浪曲史」によると、昭和三十一年から三十二年にかけラジオ浪曲は絶頂期を迎える。文化放送の「浪曲学校」、ラジオ東京の「浪曲天狗道場」、NHKの「素人即席演芸会」、ニッポン放送の「のど比べなんでも大学」、文化放送の「浪曲歌合戦」と、素人参加番組が出揃う。唯二郎氏は次のように分析している。

十一月二十九日(日)「吉野狐」
昭和三十九年に亡くなった広沢菊春に「吉野狐」という演目がある。上方落語の「吉野狐」を浪曲にしたもので、元の落語よりも面白い。落語では大棚の若旦那が橋の上から身投げしようとしたが、浪曲では若旦那と継母の愛情、若旦那と番頭の掛け合いに変え、より人情味が増し、より笑いも増している。助けた野狐の恩返しと「吉野が信田にかわった」というさげは同じである。
こういう名作こそ日本文化の貴重な財産である。落語の名作を浪曲で演じるのは浪曲復興の一つの方法であろう。

十二月四日(金)「テレビとラジオの分割を」
講談は実演が似合う。浪曲は実演とラジオが似合う。しかしどちらもテレビには似合わない。テレビに合わせる方法はある。上演を要点に絞る方法と、音のみ続けて画面を変えるやり方である。例えば天保水滸伝では声に合わせて利根川や笹川繁蔵の碑や平手造酒の墓を映す。
しかしもっと根本的なことはラジオとテレビは競合相手にすべきだ。今のようにテレビとラジオが同じグループでいる限りラジオはテレビの付属物に留まる。新聞社が関連会社にテレビとラジオを経営させる。新聞社を拝米にすれば全部拝米になるからアメリカCIAにとっては便利かも知れないが、日本国民にとっては不便である。新聞とテレビとラジオの分割は急務である。

十二月六日(日)「木馬亭(その一)」
昨日は東京浅草の木馬亭に浪曲を聴きに行った。仲入り前の一幕は藤田元春師の「名人竿忠」であった。後に釣竿作りの名人となる忠吉が貧乏な頃に妻が二人の子を残して病死するという物語である。客席でハンカチを目に当てる人もいて、感動的な一幕であった。テレビではこの感動は伝わってこない。大きなホールでも伝わってはこない。定員が百二十人くらいの小さな浪曲定席だからこそ伝わってくる。
トリは東家三楽師の「赤穂義士外伝」であった。こちらも熱演だった。閉幕ののち観客どうしが「外伝は久しぶりに聴いたよ」と話していた。珍しい出し物なのだろう。

十二月九日(水)「木馬亭(その二)」
浪曲寄席は の三つが見せ場である。しかしそれしか上演しなかったら若い人はいつまでたってもうまくならない。三人以外は若手の勉強の場と考え、我々観客が若い人を育てているのだ、という大きな気持ちで観るとよい。
せっかく浪曲寄席に来ても最初の数人だけを観て、何だつまらないや、と帰ってしまう人がいる。入ったら最後、運命だとあきらめ最後まで観るべきである。この三人を聴けば絶対に満足するはずである。

十二月十日(木)「浪曲寄席の経済学」
この日の入場者数は三十余名。木戸銭が二千円で売り上げは寄席と折半するから出演者側の受け取りは三万五千円。それを六人の浪曲師、一人の講釈師、六人の曲師で分ける。かつては浪曲寄席が都内に百近くあったから、掛け持ちで十分に生活ができた。今では木馬亭だけになった。それも月に十日しか上演しない。収入のほとんどは地方のホールや宴会の出演などに拠る。それでも寄席に出演するのは芸を磨くためである。

十二月十二日(土)「東京に行ったら木馬亭に寄ろう」
寄席は若手芸能人の勉強の場に留まらない。ファンを作る場である。ラジオやCDやホールでは新しいファンは生まれない。東京に行く人は木馬亭に寄ろう。そうすれば浪曲ファンが増える。ファンはラジオやCDやホールでも聴くようになる。

寄席はなぜ若手芸能人の勉強の場となるのか。一つには観客の反応である。二つにはよその師匠の小言である。ベテランは若手にどんどん小言を言ってほしい。若手はそれをどんどん吸収してほしい。

十二月十四日(月)「若手は古典を」
ある女流の前座さんの浪曲「たけくらべ」を聴いたことがある。誰もが樋口一葉の小説を読んだことはあるから、そのまま演じたのでは観客が退屈してしまう。「たけくらべ」は浪曲協会会長の澤孝子師の得意物だそうで、ベテランが演じるから聴ける。若手は古典物を演じてうまくなり、ベテランになったら新しいことに挑戦してもよい。
この順序を間違えたのが講談協会の二回の分裂騒ぎである。


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