四百二十一、三原橋と歌舞伎座


平成25年
五月二十四日(金)「三原橋」
三原橋の地下街は昭和二十七年に作られた地下街で、まもなく廃止されるらしい。そこで先週の土曜に加藤弁護士の講演会ののち東銀座駅に行つた。道路と平行かと思ひ銀座通りまて行つてしまつた。見つけるのに苦労したが、なぜこんな大きな入口に気付かなかつたのか。
写真を撮る俄か写真家が何人かゐた。映画館は既に閉館した後だつた。天井のかなり下に設置されたむき出しのスプリンクラーが印象に残つた。あと入口とビルを兼ねた建物が印象に残つた。私には昭和二十年代に作られたとは思へない。昭和四十年に建築されましたといはれても納得するだらう。

五月二十五日(土)「歌舞伎座」
次に近くの歌舞伎座に行つた。路上では和服姿で入場を待つ人が多数ゐて華やかだつた。地下鉄の駅に直結した地下二階の広場の多数の仮設土産物売り場は華やかである。エレベータで五階に行つた。歌舞伎座ギヤラリーは既に閉館したので屋上庭園のみを観た。
今の歌舞伎座に建て替へる前に、幕見席だが一回来たことがある。今は新築されたばかりで混んでゐるから、いつか見に来たいものである。

五月二十八日(火)「浪曲と歌舞伎」
浪曲と歌舞伎を比べると浪曲のほうが敷居が低い。テレビの普及と共に浪曲は廃れたが歌舞伎は一定の人気を保つてゐる。その原因を調べようといふのが今回の特集である。浪曲は三年前にCDを県立図書館で借りたり木馬亭に観に行つた。それまでたまたまラヂオで流れるものが聞こへることはあつても、自分から聴くことはなかつた。歌舞伎は過去に国立劇場、旧歌舞伎座(幕見席)と二回観たことがある。しかし一定の人気の原因を見つけるには至つてゐない。

五月二十九日(水)「河原崎長十郎著『歌舞伎入門』その一」
早速図書館で書棚にあつた歌舞伎の本を二冊借りた。一冊目は河原崎長十郎著「歌舞伎入門」である。お父さんの河原崎権之助の先々代は七代目市川団十郎の五男を養子に引き取つた。これが後の九代目団十郎である。最初この本を読んだとき、この本は駄目だと思つた。題名に反して入門の話がないことと団十郎や権之助を身びいきで誉め過ぎることと、今と違ひ代筆を使はないからどうも文章の冗長が気になつた。しかしせつかく借りたのだからともう一度読むと二回目はなかなか面白かつた。
まづ七代目、八代目、九代目の団十郎のことがよく判る。次いで弁慶の勧進帳のことがよく判る。

五月三十一日(金)「河原崎長十郎著『歌舞伎入門』その二」
河原崎長十郎は共産党に入党した。
昭和二十年(一九四五)に終戦になりましたが、東京中焼野原になったような始末ですから、とても勧進帳のようなものをだすというわけにはいきませんでした。(中略)前進座も世相に刺激されて、共産党へはいろうという空気がでてきました。家族も含めてほとんど全員が入党したわけです。


この当時は伝統的文化人で共産党関係者がかなりゐた。この状態を続けることは与党になるには必須だが、共産党は昭和六十年あたりから政権を諦めてしまつた。長十郎は、現在の襲名披露が1万枚以上の切符を引き受けることで行はれ封建主義が商業主義に転化したことと、テレビで名を売つた歌い手が多くの俳優の中心として興業を行ふ、これもスポンサーが観劇団体を持ってついてくるためのコマーシヤル座頭だとし
これはやはり、資本主義社会体制という、上から下まで自由競争、商業主義、もうかるもの第一の社会になったのですから、これまたなんの不思議もありません。

と書いてゐる。

六月一日(土)「河原崎長十郎著『歌舞伎入門』その三」
明治維新のとき九代目団十郎は三十一歳だつた。伊藤博文、井上馨、西園寺公望といつた演劇改良会のメンバーは団十郎を支持した。
彼は、もちろん、天皇を崇拝していたにちがいありません。しかしまた明治初年の天皇は、まだ神にまでもちあげられていない人間的な存在であったようで、団十郎升子夫人は次のようなユーモラスな逸話を残しております。
彼女は徳川将軍と天皇を評していわく、
「そりゃあおまえさん、公方様はなんといったって、たいしたえらさだよ、まだまだキンチャンはだめだよ」
キンチャンというのは禁裏様というわけで若い明治天皇をさしての彼女の批評なのでありましょう。

九代目団十郎とその夫人は共産党とは関係がない。それどころか伊藤博文などの支持を受けた。その団十郎夫人が天皇のことをちゃん付けで呼ぶ。京都ではさん付けで呼ぶがそれと同じである。
この時代の日本はよかつた。ところが明治政府は欧州の真似をして天皇の神格化を図つた。一方で日本の反政府の立場の人たちの一部はアメリカのアナーキストの影響を受けて天皇批判のビラをアメリカから日本に大量郵送した。不安を抱いた明治政府が小さな事件を大逆事件に拡大させた。双方が西洋の猿真似をして起こした不幸な事件であつた。

六月八日(土)「河原崎長十郎著『歌舞伎入門』その四」
一九六〇年(昭和三十五)二月北京、西安、武漢、南京、上海、広州などの各都市で公園しました。七十余人の大団体が訪れたのですから壮観といわなければなりません。
純古典として、<勧進帳>、<鳴神>、創作古典として<俊寛>、<佐倉宗吾郎>、をもっていきました。

勧進帳は五年前にも二代目市川猿之助の中国公演があつた。漢劇の名女優、陳伯華は長十郎に
私はこの劇は二度めです。前に初めて見たときは、弁慶が出て来たとき何も感じませんでしたが、今度は、長十郎さんの弁慶が出て来たとき、人間を感じました。そして舞台へ行かれると闘争が始まりました。あの扇と数珠の使い方が美しいと思いました
日中の両共産党が仲良かつた時代の話である。自民党は台湾支持なので中国とは仲が悪かつたが、その後、文化大革命、日中国交回復、プラザ合意(日本の西洋化と日中間経済格差)があつた。

六月八日(土)その二「服部幸雄著『歌舞伎のキーワード』」
図書館で借りたもう一冊は服部幸雄著『歌舞伎のキーワード』である。十八番と書いて「おはこ」と読むことは私より十歳年上の世代でも知らないだらう。或る人が「じゆうはちばん」と読むから私もさうだと思つてゐたくらいだつた。世界、花道、幕引き、幕の内、二枚目、見得なども歌舞伎と関係の深い言葉である。
この本には出てこないが落語にも歌舞伎の場面がたくさん登場する。それだけ庶民に人気があつたからだらう。


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