四百四十一、東京新聞六月三十日版は極めて低質だ(山口二郎氏批判、その十三)


平成25年
六月三十日(日)「自己責任論の虚妄の虚妄」
山口二郎氏の本日のコラム「自己責任論の虚妄」は極めて低質である。かつてイラク人質事件で救出された人を「自己責任論」として批判した辛坊治郎氏がヨツトで太平洋を横断中に遭難した。この件に付いて
私も自己責任論には反対だから、このキャスターをたたく気にはなれない。

といふ。今回は自己責任論の是非が問題ではない。マスコミの横柄な態度、世間に目立たうとする態度、自己の発言内容の矛盾の是非である。山口氏はマスコミと同じで既得権側で、ましてやシロアリ民主党への応援は尋常ではない。だからマスコミへの批判が極めて不十分である。

七月一日(月)「普通の国民の生活との相違」
今回の太平洋横断は読売テレビ、吉本興業などで組織する「プロジェクトD2製作委員会」が企画、支援した。ましてや辛坊氏は元読売テレビアナウンサーで報道局解説委員長も勤めた。通常の国民生活で起きた事故なら政府が面倒を見るべきだ。しかしマスコミが世間の注目を集めるために企画したものになぜ国民の税金を使はなければならないのか。
窮地に陥った人を助けるために政府があり、そのために政府が金を使うのも当然の話である。
窮地に陥った人を助けるのはよいことだ。しかし費用を国民が負担すべきかだうかは別問題だ。例へば国立病院に入院したときはきちんと医療費を払ふ。重病で生きるか死ぬかの窮地だから国民負担しろとはならない。救助活動に規定がないから国民が負担してゐるだけだ。通常の生活とは懸け離れた行為で起きた事故は本人とプロジェクトD2製作委員会が負担すべきだ。
同乗の全盲の人はアメリカサンディエゴ在住、今回のヨツトは福島県からサンデイエゴまで。辛坊氏はペース大学研究員として一年間ニューヨークに駐在したこともある。つまりこの企画はマスコミによる単なる拝米国民洗脳工作ではないか。

七月三日(水)「山口氏はなぜピラミツド型あるいは一億総中流を主張しないのか」
山口氏自身も今回の事件が普通の国民の生活とは異なることを認めてゐる。
件のキャスターのように、自ら好き好んで危険の中に乗り出して遭難した人間を助けるのだから、病人、失業者など自分の責任の及ばない理由で危険にさらされる人間を助けるのは当然である。
自ら好き好んで危険の中に乗り出した人間を助ける必要があるか。助ける必要はあつても税金で負担する必要があるか。それらを考へずに話を病人、失業者に飛躍させるが、多くの病人と失業者は自ら好き好んでなつた訳ではない。「自ら好き好んで危険の中に乗り出した人間」と「病人、失業者など自分の責任の及ばない理由で危険にさらされる人間」を同等に扱ふことにより、後者の救助が低質化する。
山口氏は以前に最低賃金を上げることを主張したが、それでは駄目である。日本全体がピラミツド型の社会なら最低賃金の引き上げが一番良い。しかし日本社会は菱形である。だから最低賃金を引き上げたらその水準の人が増へるし、最低賃金にも入らない失業者も増へる。
かつての一億総中流が一番良い。プラザ合意の前まではさうだつたのだから今からでも絶対にできる。シロアリ民主党の分厚い中流層では駄目である。落ちこぼれる層が出てくる。

七月三日(水)その二「対策を言へない山口氏」
山口氏は
人間を物同然に扱って金もうけをする経営者が大手を振り、生活保護を切り下げる政策が決められそうになる現状について、考え直す契機としなければならない。
といふが、人間を物同然に扱ふ経営者の対策を何か考へてゐるのか。まづ労働法規を厳しくすべきだ。企業の利益だけを見るのではなく人間を物同然に扱ふ企業の税率を厖大なものにすべきだがそれだけでは駄目である。失業者を無くす対策を立てるべきだ。失業率が下がれば人間を物同様に扱ふ企業からは人が自然に去る。世の中が人手不足だとさういう企業は存続できない。
生活保護はそれだけでは人間の精神を腐敗させる。生活保護ではなく仕事を与へるべきだ。障碍者は働けない分を公費で負担すべきだ。西洋の猿真似でやるから違和感が出る。そして生活保護を下げろといふ話になる。
山口氏の「考え直す契機としなければならない」では余りに低質だ。

七月四日(木)「低質で偏向した新聞」
東京新聞は質が低い上に偏向がひどい。山口氏のコラムと同じ三十日の一面トツプに「憲法と、」といふ連載の特集が載つてゐる。私は憲法第九条の戦争放棄を改変することは反対だから本来この記事に反対ではない。しかしこの記事は今までほとんど読まなかつた。まづ一面に載せる内容ではない。新聞は事実を書けばよい。読者を洗脳しようとするその偏向ぶりと傲慢さに反対である。読者を何だと思つてゐるのか。
今回の記事は社会党が消滅の道を歩み始めた「自衛隊合憲」「日米安保堅持」「原発容認」の臨時党大会を取り上げた。記事は社会党を護憲政党としたがそれは違ふ。社会党は社会主義政党である。社会主義とは共産主義から社会民主主義、民主社会主義まで含まれる。自衛隊合憲はよいが、米軍存在下での自衛隊は米軍の下請けだから違憲とすればよかつた。
このとき村山の提案に反対した社会党職員がその後退職し、国際法を学ぶため渡英した。英語の習得から始め足かけ六年でイギリスの修士課程を終へた。私が反対するのはこの部分である。社会党は中立のはずだ。或いはソ連中国ベトナム側のはずだ。この職員の行為自身は本人が国際法を勉強したいといふことで否定する必要はない。しかし旧社会党内の極めて例外な事例を一面トツプで紹介する。読者を欧州は正しくて日本は間違つてゐると誘導する。丸山真男、或いは欧米帝国主義者なみの発想である。

七月五日(金)「もう一つの偏向記事」
山口氏のコラムと同じページの見開きには、湘南の海で今年から音楽とダンスの規制をする記事が載る。私は現場に行つたことはないが、次の文章で規制したほうがよいことが判る。
三年ほど前から「トランス」や「サイケ」といったジャンルの音楽を大音量で鳴らす海の家が目立ちだした。酔った若者らが乱闘事件を起こすなどのトラブルも多いという。藤沢署によると、市内三カ所の海水浴場でのけんかなどの一一〇番通報はひと夏で五百件を超えるという。


3年前から始まつたのだから早く規制すべきだ。ところが東京新聞は規制に反対らしく記事の冒頭から
「子連れだと、昼間から酔っ払う若者が大勢いるのを見るのは嫌。でも海の家から音楽が全くなくなるのは寂しい」。神奈川県藤沢市の片瀬西浜海水浴場。長男(七つ)を連れてサーフィンに来ていた主婦(三一)が話した。


この記事の悪質なところは普通の市民ならほとんどの人は規制に賛成である。だからと言つて若者の意見を冒頭に書いたら読者が反発する。だから長男を連れた主婦と紹介して読者には普通の市民を思はせながら実際はサーフィンに来た若者に近い人の意見を載せた。しかもその意見は規制に反対ではなく嫌だが寂しいと中間的な意見である。記事の中ほどには「子連れどころか、大人だって恐くて通れない」「地元の人間が夕涼みに出かけられるような浜ではなくなった」と普通の市民の意見も載せる。冒頭にこの発言を載せれば偏向のない記事になる。無理に音楽やダンスに賛成するからこのような書き方になる。

七月六日(土)「東京新聞は偏向意見パンフレツトと堕した」
この記事の冒頭よりさらに右側に、記者の署名入りで一回り大きい活字の枠囲み文章がある。その最後の3行に「湘南の海と音楽は切ってもきれない関係。一律で極端な規制は健全な音楽文化をつぶすことになりかねない。」とある。砂浜で規制することが健全な音楽文化をつぶすはずがない。健全な音楽文化は日常の活動から生まれるからである。
更に記事の下側にも「デスクメモ」と称して別の記者が「乱暴者は論外だが、みんなで楽しむ音楽とダンスは残してほしい。」とある。みんなで楽しむ音楽とは盆踊りや祭囃子だ。それ以外の音楽は人により好き嫌ひがある。
記事自体が偏つてゐるくせに、記事の外に署名入り意見を書き、更に別の記者が「デスクメモ」を書く。読者に向かつてずいぶん横柄な態度を取るものだ。食堂のおやじが客に向かつて「もつと早く食べろ」「もつと美味そうに食え」と悪態をつくやうなものだ。
記事を読んでゐない人の中には、そんな乱暴な悪態はさすがに記事には書かないと思ふ人もゐよう。ところが記事は最後に音楽評論家といふ人の「『大人なんだからガキどもを教育しなければならない』と考えているのと同じだ。浅薄な権威主義を振りかざして、若者文化を抑えつけるのを許してはならない」

記事の最後は結論を書く。これがこの記事の結論である。東京新聞はもはや新聞とは云へない。(完)


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