三千二百六十八(うた)1.大河ドラマの傲慢、2.最新の歌論文章論
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
七月二十六日(日)
豊臣兄弟は、二週間ほど前から観なくなった。長曾我部元親が女装で現れる次週からなのは、偶然だった。馬鹿馬鹿しくて、女装は批判することさへ、思ひつかなかった。まともに論評する事は時間が無駄なのでGoogleAIを引用すると
「姫若子」の逸話: 元親は幼少期、色白でおとなしい性格だったため「姫若子(ひめわこ)」と揶揄された歴史的伝承があります。
ドラマ独自の創作: 実際に元親が女装していたという史実や記録はありません。幼少期のあだ名の逸話をベースに、
三年前の「どうする家康」でも、似た話があった。側室が同性愛者だったと云ふのだ。これもくだらないのでGoogleAIを引用すると
大河ドラマ『どうする家康』では、北香那さんが演じた側室・お葉(西郡局)が同性愛者として描かれ、同僚の美代を愛していると家康に告白する展開がありました。史実での同性愛に関する記録はなく、ドラマオリジナルの現代的な解釈や演出として(以下略)
この年は、このあと三回ほど見続けた後、退屈なので見なくなった。二つの大河ドラマを見なくなったことと、同性愛や女装は無関係だ。片方は次週から、もう一方は四週後からだ。
とは云へ、無関係なのは、視聴者側からの見方だ。製作側から見れば、もはや工夫の余地が無くなったので、同性愛や女装を入れて誤魔化す。視聴者側が退屈で見なくなるのと、ほぼ一致する。製作の字を用ゐたのは、そのためだ。芸術度が、まったくない。
更に大きな問題が潜む。LGBT問題は、賛否両論がある。と云ふよりは、ほとんどの人が昔から続いた道徳観を尊重する。アメリカのバイデンに圧力を掛けられたので、日本ではLGBT法を制定してしまっただけだ。
さう云ふ問題があるのに、なぜ大河ドラマは、二度もさりげなく偏った意見を押し付けるのか。報道機関は、自社対決が崩壊して以降、悪魔の思想、リベラルに偏向してしまった。
---------------------------ここから「和歌論、文学論」(二百九十六)--------------------------------
七月二十七日(月)
一ヶ月ぶりの「和歌論、文学論」になった。今回は、これらを越えて「文章論」である。それは、実効の美を持たなくてはいけない。それは、これまでも登場した。しかし今回は、歌に限らず、文学にも留まらず、すべての文章に拡大した。
実用文は、実効がある。逆に、実効に偏り過ぎて、読む人を不快にさせたり、そこまで酷くはなくても、美意識に欠けることが、世間にはしばしばある。
実用文も、美意識が必要だ。これが本日第一の結論である。他人を不快にさせないと、云ふ意識があれば当然のことだが。
次に、文学と呼ばれる文章に、実効が欠けるものもある。明治維新後に、西洋の猿真似で現れた、詩、小説に多い。歌にも多いが、これは古今集より後の傾向だ。これが本日第二の結論となる。
これら二つの結論は、日本の報道機関にも当てはまる。新聞や雑誌のやうな文章に限らず、テレビのドラマやドキュメンタリーにも当てはまる。尤も、昨年の東條英機と武藤章を美化するものや、二つの大河ドラマがLGBTに偏向するのを見ると、観る側を不愉快にさせない配慮がまったくない。あるのは偏向意見の押し付けだけだ。
聞く人や文を読む人映像を観る人たちへ気配りは 不可欠につき職業人注意をするか業界を去れ
反歌
自社対決崩壊ののち報道は堕落が続く復帰できるや(終)
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兼(社会の復活を、その六百十四)へ
兼「和歌論、文学論」(二百九十六)へ
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