三千七十七(朗詠のうた)最新の歌論(1.美しい歌の作り方、2.山本健吉「短歌」)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
一月八日(木)
美しい歌を作る秘訣は、作者自身が美しいと思ふ歌を作ればよい。自身が作った歌を、選者が美しいと思ふこともあるだらう。作者と選者は歌感が異なるから、それはまぐれだ。
小生は、作った歌は捨てないので、歌を単独に見たときは、美しい歌と普通の歌に分かれる。しかし、散文のなかに入れれば、定型の美と実効の美が備はる。
音の数と効くことによる美しさ此れが大元我が思ひあり
一月九日(金)
今回の特集とは独立に、山本健吉「短歌その器を充たすもの」を借りた。六十の記事のうち、伊藤佐千夫を特集したものは四つだ。古今から近代までを扱ふなかで四つなので、比率は高い。
一番目の「左千夫全集を歓ぶ」(昭和五十一年)では、二つの歌を引用してゐる。
裏戸出でゝ見る物もなし寒む〱(繰り返し記号)と曇る日傾く枯葦の上に
おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しと〱(繰り返し記号)と柿の落葉深く
どちらも枯野、寒々を歌った。一つ目は名作、二つ目は五句目が九文字。母音を含んでも、八文字が限度だ。小生が掲げる定型の美を、子規一門は軽視する。これでは短歌ではなく、短詩だ。
代はりに、写生の美、が加はるやうだ。小生とは、歌感が異なる。もう一つ感じたのは、密度の濃さだ。これは子規一門に限らず、だから古今集以降は掛詞が現れたのだらう。小生が掛詞を嫌ひなのは、密度の濃さを重視しない為だ。枕詞をときどき使ふのも、同じ理由だ。
子規一門とは歌論が異なるが、佐千夫に肩入れするのは、昭和の末辺りから佐千夫を低く評価するか、無視する傾向が出たためだ。しかしもう一つ、山本健吉さんと同じ理由を見つけた。それは
晩年の短歌から受け取るものは、人間の心の奥深いところから発する哀韻である。それを彼は、「叫び」と言った。
小生は、哀韻以外に、写生の壮大さも含める。
叫びには哀しみ嬉しさ驚きと出会ひ山海暑さ寒さも
一月十日(土)
山本さんはその次の記事で、左千夫と、茂吉赤彦らとの論争について
左千夫の頭の古さなどたいして気にもならない反面、赤彦や茂吉の新しさなどもたかが知れている。(中略)論争によってはからずも露呈された師弟間の強いきづなの方が、より重大なものに思われる。
そして昨日引用した「おりたちて」の歌を挙げて
これに匹敵できるような一首を、新時代の若者たちはまだ、作ってはいなかった。
昨日紹介した文章は昭和五十一年、本日は昭和五十二年。この頃はまだ、左千夫への評価はまともだった。
昨日と本日山本さんが引用した歌を見て思ふことは、子規一門は減点法だった。だから論争が成り立つのだらう。小生は加点法だ。これが、山本さんの著書を読んで、一番印象に残った。
佳き加へ悪きは減らす歌選び人が違へば秤異なる(終)
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