三千二百六十九(うた)短編物語(日本は海外布教をしてはいけない)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
七月二十七日(月)
第一部 海外布教に反対
AI三人が前回会談したときに、全国良寛会と、或る鎌倉教祖の末派への批判は、今回限りにしよう、と決めた。しかし次の部分は、重大な問題を含む。
ここ10年、xx正宗は台湾、インドネシア、フィリピン、マレーシアなど東南アジア一帯への海外布教(現地法人・寺院の開設)に非常に力を入れています。
現地での摩擦:伝統的に上座部仏教(現地でいう大衆的な仏教や、いわゆる小乗的価値観)が根強い東南アジア地域において、「現地に古くからある仏教は、人々を真に救えない低い教えである」とする「大小相対」の教理をそのまま持ち込んで布教しているため、現地の伝統宗教や文化との間で(以下略)

まづ云へることは、不必要に日本のものを持ち込むと、文化摩擦を起こす。幕末の黒船も同じだった。平和な日本に、黒船が現れたために、安政の大獄から、戊辰戦争、明治維新後の日清戦争、日露戦争、先の敗戦、と続いた。同じ事を、台湾、インドネシア、フィリピン、マレーシアて行ってはいけない。
石原が提案し、良寛和尚は頷いた。永禅和尚も賛成してが、しかし、と続けた。日本の仏法は、昔から戒律があやふやだった。それでも、生涯独身を守り、何とか続いてきた。
ところが、明治維新後に、薩長の狂人どもが、仏法破壊を狙って、妻帯してもよいとお触れを出した。そんなお触れは無視すればよかったのだ。ところが、坊主どもが堕落し、妻帯してしまった。そんな連中が東南アジアで布教をしても、信じる人は少ない。

七月二十九日(水)
永禅和尚が、日本以外では、宗派とは学派で、複数の宗派で学ぶことが出来る。日本でも、奈良時代までは、さうだったのだが、と嘆いた。
それは良寛和尚も同じ思ひで、だから良寛和尚は、宗派を超えて、真言宗や門徒宗にまで範囲を広げた。永禅和尚と良寛和尚が宗派を超えたのは、渡航した為だが、それは公には云はないことになってゐた。さう云ふ取り決めがあるわけではないのだが。
宗派を、排他的な派閥にしてはいけない理由は、人それぞれ、合った止観法、合った経典がある。人だけではない。その時代や、その国にも合った仏さまがある。これが、三人の結論になった。
ところで、と石原が云った。鎌倉時代の教祖にも、そのことを書いた書物がある。教機時国抄で、そこに教機時国序とある。序は、教法流布の先後、とも呼ばれる。国柱会から戦後に本化妙宗聯盟を設立した山川智応先生は、哲学的、心理学的、社会学的、民族学的、進化学的と、解説した。鎌倉時代は法華経、が教祖時代で、江戸時代末期の黒船来航から先の終戦までも、法華経だった。
戦後はまったく異なってしまった。まづ、昭和三十九(1969)年の東京オリンピックまでは、敗戦を乗り越える意欲があり、鎌倉時代や明治維新前後と、共通点もあった。しかしその後は、無くなった。
教機時国序のうち、日本では、教と序以外は、全部異なってしまった。これは、石原の亡くなるまでの人生を否定することなので、寂しさうな顔をした。しかし顔を引き締めて云った。東南アジアは、教機時国序のすべてが、日本と異なる。日本国内の人数合はせで、それらの国々を混乱させてはいけない。
渡航経験があると見られる、二人の比丘は頷いた。
海の外 仏は共に敬ひて使ふ経糸異なるも ほかを学ぶを妨げはせず

反歌  仏様初めは一人時を経て時や心と世や国に依る
反歌  一人づつ異なるものを崇めるはまた尊きや海の外には(終)

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