二千八百八十六(うた)歌謡と浪曲
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
八月十日(日)
浪曲から遠ざかったので、Youtubeで「浪曲」を検索した。年齢と共に好みが変化したのかも知れない。観たい浪曲が無い。次に三味線、三絃。更に三線で検索し、沖縄民謡は次回取り上げたい。
その間に、たまたま検索に引っ掛かった辰巳ゆうとの歌謡浪曲は、歌唱が逸品だ。曲と歌詞は、改良の余地があると感じた。これほどの人が埋もれるのは惜しい、と「赤いランプの終列車」「一本刀土俵入り」「襟裳岬」を観たところ、これは秀演だ。歌謡歌手は、過去の歌で売り出すとよい。
これに気をよくして、二ヶ月ほど前に観た 松尾雄史「王将一代・小春しぐれ」を鑑賞した。前回は三波春夫の次に聴いたので、見逃してしまったが、今回は勝れると感じた。
浪曲と歌謡曲とが融合し 辰巳ゆうとを発見し 松尾雄史もまた再発見
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反歌
浪曲と歌謡曲には亡国の危機を救ふの力が潜む
八月十一日(月)
中国の三絃が、沖縄に伝はり三線になった。三線が本土に伝はり三味線になった。しかし三味線は遊興の印象が強い為か、箏や尺八と合はせる時は、三絃と呼ぶ。そして三味線や三絃で検索しても、目ぼしいものが見つからなかった。
そこで三線で検索し、沖縄民謡を幾つか聴いた。本土の音階で西洋式の音楽を作ると、ファとシを抜いたものになり、これは聴いて心地がよい。しかしマッカーサーの洗脳が利き過ぎて、日本式の音楽は古いと感じる人が多くなった。
ここは、沖縄の民謡を聴くとよい。沖縄の音楽は、新鮮だ。そこから本土の音楽に回帰するのがよい。
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八月十三日(水)
国本武春師が健在の時、木馬亭へ観に行ったことがある。悲しい場面は、悲しさうな顔になるので感心した。今の若い人たちは、表情が無いやうに思ふ。或いは客席から角度の関係で、表情が見えないだけか。
本日は、浪曲の動画を鑑賞しようと思った。ところが気力が出ない。次に、歌謡浪曲の鑑賞記を書かうとしたが、やはり聴く気にならない。三日前は、好みの変化と書いたが、猛暑の後に涼しくなると、動きが鈍くなる。数年前から、この現象が起きる。
歳のせい気候のせいか ユーチューブ声は動画も映像は静止画ばかり それも理由に
反歌
浪曲師顔の仕草を観るためにしかし画面は静止画のみに(終)
(追記)本日は、朝から午後四時くらいまで、更新プログラムのダウンロードでディスク使用率が100%-2%だった。普通は±2%だが、100%を越えることはない。タスクマネージャーで四つだったか三つを効率モードにしたが駄目だった。これが影響した可能性はある。
「いろは亭、浪曲と古典芸能四十二」
「いろは亭、浪曲と古典芸能四十四」
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