二千八百八十七(うた)瀬島龍三の自画自賛と責任逃れ
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
八月十五日(金)
Presidentのホームページに
こうして日本は対米戦争へ突き進んだ…名参謀・瀬島龍三が語った「旧日本陸軍エリート集団」の不協和音

が載った。
「大変な作業でしたよ。僕の人生であれだけ膨大な机上の作業はほかになかった」
伊藤忠商事特別顧問の瀬島龍三が口を開いた。1995年(中略)伊藤忠商事(中略)の応接室。(中略)瀬島の言う大変な作業とは41年12月8日午前零時を期して始まる陸軍のマレー半島上陸作戦の準備のことだ。
「例えば、どこの師団を敵前上陸させるか。地域の特性をつかみ決めなくてはならない。
暗夜、3、4キロ沖合に輸送船で入り、(中略)上陸艇に乗り移って一斉に上陸する。これは内陸の部隊には無理。小さい時から海に慣れてる善通寺(香川県)や広島の部隊でないとね」

地域の特性を生かすことは、瀬島の発案なのか、それとも参謀本部の知識集積なのか。それを書かないから、瀬島のやることは勝れる、と読者に思はせてしまふ。
圧倒的に大きな国力の米国との戦争へ突き進んでいく旧陸軍参謀本部作戦課。瀬島によると、その最大のきっかけは、7月末の南部仏印への進駐と、これに関連して起きた米、英、オランダによる日本の在外資産の全面凍結だった。

そこに至るまでは
41年6月、ドイツがソ連に進攻した。その背後をつく北進か、南進かで議論が続く中、(中略)作戦班長の服部卓四郎が課長に昇格した。服部はノモンハン事件でコンビを組んだ辻政信を呼び寄せ、南進への傾斜を深めていく。
「服部さんは慎重な人だったが、(中略)ノモンハン事件の責任者の2人が重要時局に作戦課にいたことには問題があったと言わざるを得ない」

瀬島は、辻と同じ課員だ。九歳年下だが、幾らでも話し合ふ機会があったではないか。また終戦後も、国民の辻政信への人気は高く、衆議院議員を四期、参議院議員を一期歴任した。参議院議員の昭和三十六年に、ベトナム戦争を停戦させるためラオスに赴き、行方不明になった。
辻政信は、死後に悪く言はれ続け、小生もそれを信じた。しかし石原莞爾が辻を高く評価したので、悪い話は死後に作られたものだと気付いた。石原莞爾も死後は悪く云はれたし、海軍の南雲忠一も死後は悪く云はれた。戦争とは無関係だが、文学の伊藤左千夫も死後は悪く云はれた。(死後に悪く云ってはいけないへ)
不思議とA級戦犯で処刑された人は悪く云はない。処刑者にも遺族年金を支給する法案に、共産党も賛成したことに、当時の世相が分かる。とは云へ、処刑者の武藤章は厳しく批判されべきだ。日華事変(最初は北支事変。後に支那事変)を拡大させた責任は重大だ。それが先の戦争に繋がった。
「当初の参謀本部情報部の判断は、ドイツ軍は1カ月でソ連軍を撃破し、冬までにウラル以西を制圧するというものでした。だが関東軍特種演習で(ソ連進攻の)準備ができた9月には、ドイツ軍はスターリングラードの手前で引っかかり、痛手を受けていた。それが南方へ変わった背景でしょう」
(中略)なぜ、彼らは作戦課内で連携を取り合い、日本が破局に向かうのを押しとどめることができなかったのか。
「既に(南進の)国家の決定があるため、課内の横の連携を取ることはできなかったんです。なければ自由な論議をして別な結論を出し得たかもしれないが……」
瀬島はそう答えた。だが、彼らを縛った国家決定が形成される過程に深くかかわったのは、陸軍の中枢作戦課の参謀とその上司たちではなかったのだろうか。

同感である。戦争は、競技の試合と同じで、絶対に勝つとは云へない。Jリーグの首位が、最下位に負けることもある。だから、自分が反対した案で勝ってしまったら、予備役か一生冷や飯だ。瀬島が強く云はなかっただけなのに、国家決定のせいにするとは、ずるい男である。
「一体、だれがあの戦争を始めたのか。戦後50年たった今、はっきりさせる必要があると思います」
軍部支配の実態に詳しい京大文学部教授の筒井清忠(46)が奈良市の自宅で語った。
「連合国による東京裁判の結論は『軍国主義日本の政治、経済、外交、軍事の中心人物たちが共同謀議し、計画的にアジア征服に乗り出した』というものでした。(中略)実態は日本に明確な戦争の意思と計画があったというより、中堅幕僚(参謀)の暴走に引きずられたんです」
ではなぜ中堅幕僚の暴走を許したのか。筒井によるとそのきっかけは31年9月の満州事変だ。

ここで、さきほど指摘した石原が悪いとする安直な結論にたどり着く。満洲占領は、石原の発案では無く、一夕会のものだ。一夕会は、宇垣を追ひ出し、陸軍の実権を握った。後に分裂し、皇道派と統制派が血で血を洗ふ抗争になるが。だから、中堅の暴走は、宇垣追放が原因だ。
「陸軍内部の権力が最も下降したのは1939年8月でした。陸軍省の一課長が実質的に内閣をつくるという前代未聞のことが起きたんです」
京大教授の筒井清忠の話が続く。
独ソ不可侵条約締結で平沼騏一郎内閣は(中略)退陣した。陸軍省の国会対策の責任者だった軍務課長の有末精三は、後継に陸軍大将の阿部信行を担ぎ、阿部内閣を誕生させた。
「有末課長の動きは昭和天皇の耳にまで入り、天皇が不快感を表したほどだった。(以下略)」
この急速な権力下降の契機になったのは36年2月に起きた2・26事件だった。

さて
昭和初期から連鎖的に起きた陸軍の権力下降。筒井はその背景の一つに日本特有の稟議制があると指摘する。
「陸軍の意思決定システムが米国のようなトップダウンでなく稟議制なんです。(以下略)」

筒井の主張は、表層しか見てゐない。なぜ稟議制になるかと云へば、上司が無能だからだ。そして上司が無能な理由は、役職と身分が独立してゐないからだ。アメリカでは、ニミッツを少将から大将に昇進させて太平洋艦隊司令長官に任命した。日本のやり方は江戸幕府方式、アメリカのやり方は長州の奇兵隊方式。これでは負ける。
役職と身分連動日本敗戦 一夕会宇垣追ひ出し中堅暴走
(終)
(8.16追記)江戸幕府方式と奇兵隊方式の違ひは、敗戦責任四位。一位から三位までは変はらない(詳細は五月七日)。

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