二千四百十三(うた)良寛和尚と同郷(牧口常三郎)
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
七月十四日(日)
良寛和尚と同郷の宗教者は誰だらうか。同郷とは、越後線沿線で白山駅(新潟市の旧市街を除いた地域)から、荒浜駅(柏崎市の旧市街を除いた地域)までとした。すると牧口常三郎しかゐない。
常三郎は、S教育学会の創設者で、同会は戦後に急成長した。同会の政党は自民党と連立与党だから、この人を取り上げると、自民党に賛成なのか反対なのかと勘繰られることになる。小生は、賛成でも反対でもない。安倍の悪政を批判するとともに、原状復帰させることだけだ。
常三郎は、新潟県刈羽郡荒浜村で生まれた。同村は一九五四年柏崎市と合併するが、それは八十三年後の話である。荒浜村は、良寛和尚の出雲崎町から20Kmと近い。
常三郎は、父が行方不明になったため、親類の養子になった。八歳で単身北海道に渡り、小樽警察署の給仕をしながら、六年後に札幌の北海道尋常師範学校に編入した。卒業後は北海道で教師を務めたが、後に上京し、六つの小学校校長を歴任した。
その間に、講演をK会館に何回か聴きに行き、K会が連携した大本山と元は同格で、このときは別の宗派に分かれた或る寺の信者になってしまった。「なってしまった」と悪い表現を用ゐた理由は、後に逮捕され獄死した。そもそもは、この宗派を広めないと国が滅びる、と罰論を掲げながら無理に布教をしたことが原因である。牧口の努力により国が滅びなかったのなら、正しい選択をしたことになる。実際には敗戦した。
厳密に云へば、このときは敗戦しただけで国が滅んだ訳では無かった。しかしその五十年後に英語公用語論が一部の愚か者たちにより出て来た。それは小沢一郎さんの活躍により、「小渕の恵ちゃんは、頭がバチッと切れてお陀仏さんになった。自業自得ですよ、ガハハハ」(田中真紀子さん)により中止されたが、その後もJRやNHKによる英語乱用など、悪い企みは続く。田中角栄さんの出身地は刈羽郡西山町で、出雲崎町の隣町だった。平成十七(2005)年柏崎市に編入された。
常三郎心配をした亡国が 五十年後にまづ起こり 八十年後再び起きる

反歌  アメリカの戦争により秋津洲巻き込まれるの惧れ高まる
アメリカが中国と戦争をすると、日本はどうするかについて元陸上自衛隊東北方面総監の主張がある。これとは別に、アメリカ側の戦死者7500人、日本側2500人の試算もある。日本が戦場になっても、アメリカ本土やハワイはならない。日本側の死者は、試算の数倍から十倍に達して、アメリカを上回るだらう。

七月十五日(月)
人は、全体型と詳細型に分類できる。全体が得意な人と、詳細が得意な人だ。かう云ふと、全体型が上と誰もが思ふことでせう。しかし、ラヂオしか無かった時代に絵も写るといいな、と考へるのは全体型。電波に画像を乗せる技術を発明した人は詳細型。この場合は、詳細型が上だ。
常三郎は、典型的な詳細型だった。だから教育法や地理学や価値論は得意だった。そして第一次世界大戦が起き、大不況で再び世界大戦が起きさうな時代に、偶々出会った寺信仰へと進んだ。S教育学会は、初めは牧口の教育論、創価教育学の賛同者で構成されたが、後に牧口の信じる宗派の信徒になることを会員条件にした。
(この寺の信仰については資料集として独立)
或る宗派教育学会十三名逮捕をされて会長は獄死をするも 寺の僧檀家は誰も逮捕をされず

反歌  寺組織良寛和尚ははみ出して牧口同じく寺をはみ出す


七月十六日(火)
石原莞爾が参謀本部作戦部長のときに、上司は参謀次長多田駿だった。石原の思想を理解した唯一の人物だと云はれる。板垣も石原と仲が良かったが、思想を理解したとまでは云へなかった。石原はK会信者、多田は良寛和尚に傾倒してゐた。
K会の講演を聴きに行った牧口は、同門の宗派の信者になった。そして牧口は良寛和尚と同郷である。田中角栄さんも同郷だった。
これらの人たちに共通することは、アジア派である。その根本は非西洋である。しかし決して反西洋ではない。西洋が武力でアジアへ進出したため、反西洋にならざるを得なかった。良寛和尚は、まだ黒船の来る前だが。
石原と多田の絆と牧口と角栄良寛地元の絆

(7.17追記)前にも書いたが、戦前は一歩間違へると植民地になった。鎌倉時代の元寇とそっくりだった。今は違ふ。戦時の宗教を、平時に信仰してはいけない。これは牧口を誉める為である。
(7.18追記)牧口は、北海道の小学校教諭をはみ出し、東京の小学校校長をはみ出し、しかし生活に困った訳ではない。牧口は、もっと研究されてもよい偉人なのだらう。
(7.18追記)陸軍三長官(陸相、参謀総長、教育総監)の人事は、三長官の合意で決める慣例だった。そして多田が次の陸相に決まったのに、突然白紙に戻され、畑俊六が阿部内閣で四ヶ月半、米内内閣で六ヶ月だけ陸相になった。そのあと東條英機が陸相になり、更には首相にもなった。多田が陸相になってゐれば、東條は出てこなかった。そして牧口の獄死と、敗戦はなかった。(終)

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