二千三百八十四(朗詠のうた)飯田利行「沙門良寛の歌」
甲辰(西洋未開人歴2024)年
六月二十七日(木)
論文「沙門良寛の歌」も、飯田利行著「大愚良寛の風光」に収められてゐる。その一つ前の論文「沙門良寛の国語音韻論」では、声韻、清濁、軽重は分かったが、それをどう組み合はせて歌を作るかは分からなかった。そこで「沙門良寛の歌」を読み始めた。
いにしへの 人のふみけん 古道は 荒れにけるかも 行く人なしに

は確かに心地よい。しかし、どう組み合はせるかは、分からなかった。それより、飯田さんは漢文と曹洞宗の専門家だが、歌に関しても深い。飯田さんこそ、良寛和尚研究の第一人者だと気付いた。
飯田さん 漢(から)の言葉とお釈迦様坐る教へのほかに得手 良寛和尚のうたと考へ

反歌  良寛のうたと考へ独り立つ得手の教へに三つ目と為す
「うた」は詩と歌の両方。
ここで「沙門良寛の国語音韻論」に戻り、最初の部分を読んだ。ここは用言の活用や五十音についてなので、よく読まなかった部分だ。
良寛の歌や詩は、こころよいリズムと流れるようなメロディーによって文(あや)なされているうえに、凍れる音楽のような清らかな書によってしたためられている。

その理由は
良寛の歌が、万葉集等の古代歌謡を基調にしていたせいかもしれない。良寛は、万葉集の格調と用字法、仮名遣法の正調を継承して江戸期の言葉で(中略)うたいあげた点は絶妙というよりほかない。

同感である。
よろづ葉を徳川の世に受け入れた 良寛和尚新しき歌の流れの先駆けとなる

反歌  よろづ葉の流れは明治の後までも左千夫赤彦茂吉らが継ぐ
書籍「大愚良寛の風光」の「はしがき」に
明治の碩学原担山師は、鉄漢良寛に対し、「永平高祖以来この人に及ぶ者なし」と最大の賛辞を惜しまなかった。これに反し、現に国上山麓の古老ですら「風来坊の昼行灯」と信じこんでいる者がいる。

小生は、釈尊、達磨大師、道元、良寛和尚と原始仏法の流れが続くと云ふことがある。原担山の賛辞と同じ意味である。なぜなら良寛和尚は、釈尊、達磨大師、道元和尚の流れを詩に詠んだ。
お釈迦様本の教へを 後の世に保ち唐へと伝へ人達磨大師で 秋津洲道元禅師唐へ行き教へ引き継ぎ大和まで伝へたものの衰へて 徳川の世に良寛和尚

反歌  衰へて堕ちた所を抜け出して残した筆と文で今へと(終)

「良寛、漢詩、和歌」(九十七の一)「和歌論」(百八十八の一)うた(九百二十四の一)へ  「良寛和尚と同郷」(九十八)へ

「和歌論」(百八十八の一) 「和歌論」(百八十九)へ

メニューへ戻る うた(九百二十四の一) うた(九百二十五)へ