二千四百十三(うた)牧口常三郎(資料編)
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
七月二十八日(日)
牧口常三郎は、良寛和尚と同郷なので晴れの舞台である。しかし信仰した宗派は、常三郎が逮捕され獄死したので穢れの世界である。そのため、良寛和尚の連載からは独立させ資料編とした。以下はそのときの内容で
この宗派の教義は、法主絶対、「本門戒壇也」と脇書きのある板曼荼羅絶対、他派不容認で、この三つがある限り布教は国民の5%が限度である。戦後の昭和四十年代に国民の一割を会員と発表する時代があったが、そのことを踏まへても5%とした。これは集計が累積のため、退会した人も数に入ることと、勢ひで入った人が三分の一はゐると見た。
小生も勢ひで留まった一人だが、長期で見た。当時は米ソ冷戦時代だったから、第三勢力が必要だった。そして、単純唯物論に反対する為に、最大宗教勢力が必要だった。
とは云へ、法主絶対、板曼荼羅絶対、他派不容認の三つを変へない限り、5%を超すことは不可能だった。 (追記、7.26)「本門戒壇也」の板曼荼羅について、後世に造られ、紙製の曼荼羅から字を抜き取ったことが平成十一年に露顕した。この説は正しいと思はれる。この宗派にとり教義を更新する好機なのだが。

ここから先は本日の追加分で、三つがある限り国民の5%が限度とした理由を述べよう。この本山は寺の数が六十一の零細宗派だった。同じ門流では、K会と協力関係にあった本山がこれより少ない程度、京都の本山が六十程度、その他の本山は全部合はせて四十程度だった。
元は同じ門流なのに、これだけ本山が分れた上に、全部合はせても少ない。分かりやすい例を挙げると、自民党に対し立民党では多すぎるから国民党程度で、国民党内部が幾つにも分かれる。国民党は全体で一つの党だが、この各本山はそれぞれが独立し、それでも江戸時代は幕府の圧力、戦前は明治政府の圧力で、形式的には一つの宗派にさせられてゐた。
牧口が所属した本山は本家意識が強く、輪番制で管長になった者は各本山を廻って説法するやう文部省から指示があり、それで宗派を離脱した。因みに残りの本山は、戦争中に文部省の圧力で身延と合併した。このとき身延は大宗派なのに対し、この宗派は微細で合併と云ふより吸収消滅だった。
独立する前の各本山は、京都にある本山と伊豆にある本山を除いて距離が数キロメートルから十キロメートルだ。それなのに本家意識の強いこの寺に従はない。すぐ近所だし昔からのことをよく知る本山でさへさうなのだから、国民のほとんどが従ふ筈が無かった。
すぐ近く しかも昔をよく知るの寺々でさへ従はぬ そんなお寺に国民が従ふはずは絶対に無し

反歌  戦前の帝国主義の非常時に牧口思ひは元寇の世へ(終)

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