二千三百六十六(うた)飯田利行「定本」と法眼慈應「近代詩訳」
甲辰(西洋未開人歴2024)年
六月十日(月)
良寛和尚が覚ったことは、三界の衆生の詩で明らかだ。ほかの詩にも書いてあるだらう。それを調べる為に、二冊借りた。飯田利行「定本 良寛詩集譯」と法眼慈應「近代詩訳 良寛詩集」である。利行さんだけでもよいが、同じ本ばかり読むより別の角度からも必要と考へた。
法眼慈應さんは前に取り上げたことがあった。近代詩訳は文学価値が高く尊いが、今は良寛和尚の覚りが目的なので、前書きの紹介に留めたい。前書き「本書によせて」は谷川敏朗さんの筆で
良寛は禅僧だが、晩年には宗派を超越して仏教の根本に至り、さらに仏教をも超越した。

小生も少し前までは、同じ事を考へた。しかし小生は、良寛和尚が覚った結果だと考へを進めた。つまり、仏教を超越したと考へるのが谷川さん。仏教の根本に至ったと考へるのが小生である。根本に至れば、仏法以外にも共通性を認めるから、実質は同じだが。前書きは中盤で
ここで改めていうが、良寛は禅僧である。悟りを開いた仏教徒である。

谷川さんと小生は、同じ結論になった。最後に詩を一つ取り上げるが、書き下し文を挙げると何と
苦(イタマ)シイ哉三界ノ子(ヒト)
(以下略)
であり、これを著者は
いたたましきかな みつのよのひと
このおろかしさ いつにしてやむ
つくづくもへば なみだくだりて
  をさむるあたはず
と訳している。良寛の究極の目的は、衆生済度であっただろう。

これも同感である。覚ることを目的とすると、私欲が入る。これは小生が長年考へたことだが、良寛和尚は衆生済度と坐禅を並列させることで覚った、を結論としたい。
凡例では、入矢義高「良寛詩集」(昭和五十七年)を主に、東郷豊治「良寛詩集」(昭和三十七年)、飯田利行「良寛詩集訳」(昭和四十四年)、渡辺秀英「良寛詩集」(昭和四十九年)も参考にしたとある。
そこで、小生も入矢義高「良寛詩集」も参考にすることにした。入矢さんは過去に三回特集を組んだが()、三は更に違ふもの二つを紹介してゐるので、五つになる。
三界は欲界色界無色界 いはゆる六道輪廻にて 覚らざる人三界を批判や憐れむ事は能はず

反歌  円通寺出ても修行を怠らず覚りの姿国上の山へ

六月十一日(火)
入矢本が来る前に、飯田本を調べたところ、良寛和尚が覚ったことを示す詩がたくさん見つかった。原詩を省略し、書き下し文を挙げると
人は生る 浮世の間に、
(中略)
ために問ふ 三界子、
何をもつてか 玄津となす。

最後の一行を飯田さんは
一体あなた方は、悟りの岸にいたる渡し場をどこに求めていなさるのか。

その一行前で、三界のあなた方、と呼びかけることで、良寛和尚は三界を脱したことがわかる。
仏はこれ 自心の作、
(以下略)

最初の一行で、良寛和尚が覚ったことが分かる。
去る時も これより去り、
来る時も これより来る
(中略)
人天 眼華堆(うづたか)し。

解説は
お釈迦様が苦行を捨てて山から下りてきた時も、また王城からぬけ出て山に入った時も、この道をお通りなさった。
(中略)この道をよそにしては、人間界、天上界いずれこを尋ねても、道という道は妄想の塊(かたまり)。(以下略)

これも道を見つけたから、云へることだ。
我れ 世間の人を見るに、
(中略)
苦しいかな 三界の子(以下略)

この詩も、良寛和尚は三界を脱したことを示す。
苦なるかな 三界の子、(以下略)

この詩も同じ。
痛ましいかな 三界の客、(以下略)

この詩も同じ。
大道 元来 程途なし、(以下略)

飯田さんの解説は
悟道(二文字で、さとり)には、もともと段階というものがない。

覚らないと、かう云ふことは云へない。
傷見す 今時の 参玄客、(以下略)

は書き下し文も難しいので、解説のみを挙げると
(前略)その者たちは、ただ悟りの虜(とりこ)になっただけで、(中略)父母未生以前の悟りの境地には、迷も悟も介入できない。(以下略)

これも、覚らないと云へない。
三界冗々として 事 麻のごとし、

で始まる詩は、三界でも明らかだが、解説の
(前略)経文に依る教家は、虚空(二文字で、こけ)の現象にのみとらわれ(中略)文字を立てない禅者は、寂静(二文字で、さとり)にとらわれ(以下略)

これも覚らないと云へない。これで第一章が終はる。

六月十二日(水)
第二章に入り
拝永平高祖録有感作

の題がある詩を読めば、正法眼蔵を読んで以来の行動が分かり混同の説が間違ひだと分かる。この詩自体は、覚る前だと思ふ。
憶(おも)ふ 円通に在りし時、

で始まる詩も同じ。
借問す 三界の内、
何物か 尤も幽奇なる

で始まる詩は、三界の語があるが、俗世の意味で、この詩は覚った訳ではない。参考までに挙げた。
我れ昔 静慮を学び、
(中略)
いかでかしかん 無作に達して、
一得 即永得ならんには。

最後の一行に、覚りに達したことを感じられる。これで第二章が終はる。

六月十三日(木)
入矢義高「禅入門12 良寛 詩集」は、最初の五十頁が「良寛とその詩」と題する駄文、そのあとの二百六十頁のみ読む価値がある。最初の五十頁には石田吉貞を引用し
「良寛は強度の自閉症であった。宮城音弥氏は、良寛はもう少しで精神分裂症になるほどの(以下略)」と。残念ながら私には精神病理学の素養がないため(中略)肯定も否定もできない。

批判せず引用したこと自体、強い肯定である。入矢義高さんは、漢文の専門家である。だから詩の現代語訳のみ読む価値がある。この本は詩の連続本ではなく、禅入門のそれだから五十頁を無理に付けたのだらう。混同と同じで、眉唾で読まないととんでもない誤りとなる。尤も石田吉貞や宮城音弥を正しいとした上で、覚ったため村人や一流の文化人(書、儒学者など)たちから慕はれるやうになった、と考へれば解決できる。
入矢さんは、良寛和尚が覚ったことを考へなかったらしく「我れ今時の僧を見るに」の解説で「三界の恩愛」について
過去・現代・未来にわたる肉親のきずな。

とする。この場面では「恩愛」があるため、それでも通用するが、三界とは欲界、色界、無色界のことだ。地下、地上と、天の一部が欲界、天の一部が欲界、天の残りが無色界。つまり地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天までの六道輪廻のことだ。だから小生は、三界に残る人たちを論じる良寛和尚の詩から、覚った、つまり天をも超えた、と断定した。
入矢さんは、良寛和尚を芸術家として扱ったので、石田吉貞や宮城音弥の自閉症説を気にしなかった。芸術家には、この種の人が多い。普通の芸術家は、作品で評価される。良寛和尚は、作品と、覚った後の人柄の、両方で評価をされた。
お釈迦様初期仏法を天竺に広めそのあと 達磨様唐に伝へて広まりて 道元様が日本へと伝へ江戸期は良寛様に

反歌  達磨様お経が無きはお釈迦様居られた時の教へに帰る(終)

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