二千三百六十六(うた)入矢義高「良寛詩集」を飯田利行「定本」と比較
甲辰(西洋未開人歴2024)年
六月十三日(木)
入矢義高「良寛詩集」で、最初の五十頁「良寛とその詩」について、役に立たないことは既に触れた。詩の解説ではどうだらうか。多くは、落ち着いた解説で、飯田さんの曹洞宗に特化し過ぎたものより落ち着いて読める。耳障りも悪くない。しかし内容では、正反対のことがある。「寂々として春已(すで)に暮れ」で始まる詩の飯田本「寒炉には さらに烟なし」が入矢本「香炉更に烟なし」。飯田本は質素な暮らしだが、入矢本では解説に
香を焚いて坐禅することも全くないことをいう。
坐禅をしたかしないかでは、正反対だ。
「一鉢千家飯」で始まる詩の「自ら怜(あわれ)む 無事の叟/昇平の辰(とき)を飽浴する」を入矢本は
こうしてこの無事の老人が
太平の御代にどっぷり浴つか)って生きているのがわれながらいとおしい
と書き、解説に
無事とは、本来この身には仏性を具有すると観じて、もはや為すべきことをもたぬ意。
良寛和尚のことを自ら詩にしたことになってゐる。こんな考へは仏法ではない。その二行前にも
突き立てる錫杖は三界の凡夫の夢を破り
が仏法ではない。飯田本には、この詩自体が無い。飯田本が正解であらう。
(6.16追記)飯田本に「孤錫千家飯」で始まる詩を、やっと見つけた。入矢本は六行、飯田本は四行なので、まったく別の詩だが、入矢本の最終行「飽浴昇平辰」と飯田本の三行目「飽食何所作」は先頭が「飽」のため、これを手掛かりに見つけることができた。飯田本は、独り住む我が鉢の子に多くの家から喜捨米を頂き、腹いっぱい食べても何になるか、のんびりと太平のうちに年を取る。こんな内容で、仏法と相違はない。
「我れ曾(かつ)て静慮を学び」で始まる詩の(飯田本は「曾」が「昔」)
蓋し修行の力に縁るのみ
争(いか)んぞ似(し)かん 無作に達して
の一行目は、入矢本と飯田本どちらも、修行によるものだ、とする。しかし二行目が入矢本は
しかし[こうした修行を重ねるよりも]始めから無作の境涯に達して
飯田本は
けれども、作為のない無心の境地のこつを一たび体得したら
と、まったく異なる。入矢本は、修行は無駄だったとする。飯田本は、修行により無作に達したとする。これは飯田本が正しい。修行せずに得ようなんて、そんな横着な考へは駄目だ。
「迷と悟とは相依りて成り」の詩で
終夜 不修の禅
の不修の禅について、入矢本は解説に
坐禅の痕跡をとどめない行じ方。
飯田本は
修証不二の坐禅(悟りを持たざる禅)
とする。小生は飯田本に賛成。そもそも入矢本は意味不明だ。悟りを目指さず、しかし結果として覚ることが正しい在り方であらう。良寛和尚もさうだった。
「憶得於林寺」で始まる詩は、飯田本は「釈帝観世音」で始まる。入矢本は林寺を
おそらく岡山の円通寺のことであろう。
とする。飯田本は、釈帝観世音を、
河北省の趙州に在った寺院か。
とする。良寛和尚渡航説が現実味を帯びる。
入矢本 訳が落ち着き詩としての文学性があるものの 詩の選択と仏法に関することは大きく劣る
反歌
入矢さん漢文学が専門も仏法学は大きく劣る
反歌
飯田さん仏法漢文専門も曹洞宗に特化し過ぎが
六月十四日(金)
「問ふを休(や)めよ 崑岡と合浦と」で始まる詩の
これを得れば一挙に解脱の彼岸に遊ぶ
飯田本も、内容は同じ。どちらも同じなのに取り上げたのは、良寛和尚が解脱(入矢本)つまり悟り(飯田本)を得た証拠である。
「唱導詞」の
仏は天中の天なる尊きお方ゆえ
を飯田本は
釈尊は天人でさえ最高として尊ぶところゆえ
原文が天中天だから、入矢本に間違ひはない。しかしそのまま日本語にしたのでは、釈尊は天界かと間違へる。その点、飯田本は勝れる。
「仲冬 十一月」で始まる詩の
端坐して 好仇を思ふ。
について入矢本は
端坐して良き人のことを思う
とした上で、欄外に
良き人 特定の人を想定する要はなく、前に注した「美人」のイメージで受け取ればよい。
前の注では
中国の古詩では、わが思う理想の人を「美人」といい(以下略)
飯田本では
きちんと坐って仲よしの友だちのことを思う。
入矢本は、良く読めば男女関係ではないと分かるが、普通に読むと美人だ男女関係だ、と短絡してしまふ。飯田本が適正だ。
「已に華情起こるなし」で始まる詩のこの部分を、入矢本は
私にはもはや華やいだ気持は起こりようもなく
と、凡そ僧侶と思はれない気持ちの落ち込みだ。飯田本は
鵲斎老と知己になってからは、百鳥が花を銜(くわ)えてこなくなった。
飯田本は(註)として
牛頭法融が四祖大医道信にお目通りしてから、鳥が花をくわえて来なくなったと伝えられる。
飯田本が遥かに勝れる。
「我れ この地に来りてより、」で始まる詩の最後の二行が、入矢本は
人間万事すべておしまいだ。
ああ今さら何を待ち望もう
と絶望のどん底である。それに対し、飯田本は
なにもかも此の世でなすべき事は終ったのだ。ああ、この期に及んでは、なおさら何も期待すべきものをもたない。
と満足を表はす。飯田本が正しい。
以上、入矢本を読むと相当間違った良寛像になってしまふ。最初の五十頁「良寛とその詩」は読む価値がないと、最初に書いた。そればかりか本文も、気を付けて読まないと、とんでもない良寛和尚像ができてしまふ。
入矢本 漢文のみの博識で訳したために 原本の取捨を含めて間違ひ多し
反歌
仏法の信仰無しに著した恐れ入矢の誤訳の詩集(終)
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