二千三百五十九(朗詠のうた)竹村牧男「良寛の詩と道元禅」
甲辰(西洋未開人歴2024)年
六月四日(火)
小生は、どうも竹村牧男さんと波長が合はない。「良寛の詩と道元禅」を読んだが、このまま素通りしようと、まづは考へた。しかし、破調が合はない理由を探す事は為になる。さう思ひ、再度読み始めた。
そしてこの特集を作る前に検索すると、前に特集を組んでゐた。そのとき「竹村さんの根拠のない想像の集大成」と書いたが、今回もまったく同じだった。
七頁から始まる「読永平録」考の章は、十八頁まで想像の域を出ない。十九頁に「傭賃」(托鉢のこと)とあり、これは賛成だ。前に、良寛は雇はれながら出家の準備をした、と書く本を読んだが、ひどい解釈だ。傭賃が出てくる詩の最後は
衝天の志気 敢えて自ら持せしを

衝天の志気は正法眼蔵に二ヶ所あり、竹村さんは次ではないかと云ふ。
およそ学仏祖道は、一法一儀を参学するより、すなわち為他の志気を衝天せしむるなり。

そして
良寛の行脚は、道元の訓(おし)えをふまえるかのように、為他の志気を衝天せしむるものなのであった。

小生もさう在ってほしいと思ふが、これは竹村さんの想像に過ぎない。次に正法眼蔵の山色渓声を引用し
山水に対立するものは(中略)名利なのである。

そして
行脚を重ねれば重ねるほど、(中略)良寛は深い落胆を味わわざるを得なかったのである。(中略)良寛もいつしか山水の風光に心うばわれたことであろう。

後半は、修行の合間に感動したのであって、心をうばわれてはゐない。前半はどうか。良寛和尚は五合庵や社務所時代にも、東北地方へ出掛けたりした。行脚に深い落胆は無かった。
なまじ畜生とも変らない、駑胎、風顛になり下がりはてた良寛は、素庵に独居して月や花を四時の友に(以下略)

これは完全に誤りである。竹村さんは宗教学が専門だが、この程度なのか。
ふるさとへ良寛和尚帰るあと 余りたごはん生き物へ与へる姿 これまでのいきさつ示す良き例へとし

反歌  五合庵乙子神社に住むときは少し豊かも質素変はらず

六月五日(水)
第二章「芸術と境涯」では
既成教団の行き方に追従してはいけぬみずからを、落雁の悲哀とうけとめたのであろう。
無論その裏には、三世の諸仏、祖師方の行履に、どこまでもついていくことはできないという悲痛もこめられていよう。
問題点を赤色にした。良寛和尚が、三世の諸仏などについて行けないとはどういふ意味だらうか。落伍した雁が没する詩の後に、この文章が入る。良寛和尚は、既成教団に追従してはいけぬのではなく、追従しなかった。そして三世の諸仏、祖師方の行履について行ったのではないのか。
本色(じき)の僧になりそこねた悔恨と自嘲とが、我にかえる良寛には常につきまとっていたのである。

良寛和尚は、好んで既成教団から離れた。悔恨があるはずはない。自嘲は、出家前と変はらないとの詩を自嘲と捉へられなくもないから、批判対象から外した。小生は、自嘲とは思はないが。

六月七日(金)
第三章「無常と任運」では
衝天の志気も泡沫のように飛散してしまったとき、良寛は故郷をめざすことしか知らなかった。帰巣本能のおのずからなせるわざとはいえ、足どりは苦渋をひきずって重かったであろう。

竹村は悪質な男だ。良寛和尚は、余った食べ物を周りに与へたことで判るやうに、仏道の心で充実してゐた。だからこの章は、役に立たない。しかし良寛和尚と無関係の事柄には、役立つ事もある。
道元もまた、無常を説いた。(中略)しかし、無常を見つめ、そこから出離をねがうのは、発心の段階においてのみである。(中略)無常を見る心そのものが無常であり、しかもこの無常をはこぶのは仏性に他ならない。

ふるさとへ良寛和尚帰る時 悪く書く人ときどきは現れるので気をつけ読まう

反歌  唐(から)行きか覚りを得たかふるさとへ帰る和尚はみやげを背負ふ
みやげとは、周りを幸せにすることだ。

六月八日(土)
第四章「生死即涅槃」では、良寛和尚が解良家で
他を化せんとするはからいは何ももたず、ただ薪をくべたり、ひとり坐禅を行ずるだけなのであった。

これについて慧能は
他人を化せんと欲擬せば
自ら須らく方便有るべし
彼をして疑い有らしむること勿くば
即ち是れ自性現ず

これは同感。

六月九日(日)
第五章「道元・良寛の『法華経』観」は
禅宗は所依の経典はないのがたてまえである。けれども、初祖菩提達磨は、『楞伽経』を依用すべきことを弟子達に教え(以下略)

達磨大師の『楞伽経』依用は、伝説ではないのか。或いは、例外で述べたのではないのか。小生は、所依の経典がないのは建前であるとともに本音でもあると思ふ。そもそもお釈迦様在世のときは、経典なんて無かった。
道元和尚と良寛和尚が法華経を尊重すべき文書を著しても、それは覚った後のことだ。そしてこの当時は、すべての経典が釈尊の直説と信じられてゐた。
第五章から後の章は、道元和尚と良寛和尚が覚った上での言説だから、覚らない竹村さんや小生が論じても不十分だ。小生は、少し前までは頓悟も斬悟も反対で、その理由は悟りを目指すことは欲だとした。
しかし江戸時代までの僧は妻帯せず修行したのだから、覚るのが当然だし、覚れば俗人とは感覚が異なる。そのことに気付いた。(終)

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