二千三百三十八(朗詠のうた)旅行外伝
甲辰(西洋未開人歴2024)年
五月十八日(土)
旅は興味のきっかけである。そのことを一番感じたのは、韮山への中旅行だった。韮山の反射炉は、五十年以上も前から聞いたことがあるのに、太陽光を反射させて鉄を溶かすものだと思ってゐた。いざ行く段になって調べると、石炭を燃やす炉だが、形で熱を反射させるものだと知った。実際にはデイサービスから電話があり行かなかったが、旅は興味のきっかけを強く思った。
今回の玉島への旅は、玉島と倉敷の位置関係に興味を持った。それまで、玉島は倉敷の一地名、の感覚しかなかった。実際には、玉島は倉敷とは別の市だったが、倉敷市と合併した。その後、山陽新幹線が開通し、玉島駅は新倉敷駅になった。
玉島は古い街にて倉敷も古い街とは来るまでの思ひが外れ 水島の海に臨(のぞ)むの工(たくみ)の群れが

反歌  玉島の街の中では家続き工(たくみ)目立たずおとなしき街
次に興味を持ったのは、寄島支所だ。これも倉敷市と合併したのだらうと調べると、浅口郡の鴨方町、金光町と合併し、浅口市になった。元の寄島町は、玉島からかなり海岸線に沿った南西だ。駅は新倉敷の次が金光、その次の鴨方か更に次が近い。バス路線は、かなり長い。
バスを運営する井笠カンパニーは、元は井笠鉄道で軽便鉄道を運行した。昭和三十九年近鉄グループとなり、昭和四十六年鉄道を廃止し、バス会社になった。2004年近鉄グループを離脱、2012年会社を清算した。中国バスが代替運行を開始し、その後井笠バスカンパニーを設立した。
家くるま星滅びると引き換への楽(たの)しさにより乗り合ひ消える

倉敷は、高校の修学旅行で来た。だから古い街との印象を五十年持ち続けた。十年前にも宿泊したことがある。山口県へ青春十八切符で行く時に、中継地として宿泊した。そのときは早朝に白壁の街を散歩した。だから尚のこと、古い街並みの印象が蘇った。
玉島は、良寛和尚の特集を組み始めてからなので、まだ四年だ。しかし円通寺の印象から古い街と思ってきた。
どちらも間違ひではないが、臨海工業地帯の都市と云ふ新たな印象が加はった。
水島の港を深く出た土で埋め立て出来た広い陸(おか)工(たくみ)の群れで名を知られ 玉島にある埋め立て地同じく工(たくみ)の群れが幾つか

反歌  玉島の工の群れは小さめで乗り合ひ車朝二つのみ

田原への旅行は、興味が旅を誘発したものだった。NHKの特集に始まる。これまでと逆のこともあるこことに気付いた。もう一つ大きな収穫があった。
----------------------ここから、「良寛、漢詩、和歌」(八十八)-------------------------
良寛和尚または良寛様と呼ぶことにした。倉敷市役所の観光案内も、円通寺について
良寛和尚が修行した寺として有名な円通寺は、曹洞宗の名刹で、(中略)円通寺を中心とした一帯は県指定名勝円通寺公園として、(中略)多くの詩碑や歌碑があり、(中略)また、公園の山頂から眺める玉島港、瀬戸内海の風景は絶景で、(中略)お花見スポット、及び紅葉スポットとして有名で、春には約400本のソメイヨシノが咲き乱れる風景を、秋には円通寺境内が、見事な紅葉に包まれる風景を楽しむことができます。

先頭の「良寛和尚」を紹介するためだが、貴重な紹介文なので長く引用した。
玉島を訪れてから 呼び方が鵬斎並みにくねりたか 良寛和尚良寛様に

反歌  玉島を良寛様が出た後は一人立ちして良寛和尚
玉島出身の近藤万丈について、批判するつもりはまったくない。良寛の実父は誰か、渡航したかしなかったか、と同様に両論があってよい。ところが、かつて疑問を投げかける意見があった万丈について、さりげなく正しいものとして扱ふ書籍が最近目立つために、平衡を保って混同と云はざるを得なかった。かう云ふ言ひ方をしなくて済むやう、さりげなく既成事実にすることは止めるべきだ。(終)

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追記五月二十八日(水)
今回の宿泊では、初めて旅館内で缶アルコール飲料を買った。今まで、館内は高いので買ったことはない。これは良寛荘を応援しようとの気持ちだった。
もう一つ、初めてのことがある。ビール類似飲料や酎ハイは、飲み会を除き二十年以上飲んだことがない。そもそも二十年前は、ビール類似飲料や酎ハイは無かったから、つまり初めてのことだった。その理由は、一泊目のビジネス旅館は、飲み物一つが付いた。そしてビール類似飲料を選んだところ、なかなか美味しかった。そこで二泊目の自販機で一本目として買った。二本目は酎ハイを買った。どちらも5%である。酎ハイは7%もあることに気付き、三本目と四本目は7%を買った。

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