二千三百四十七(朗詠のうた)飯田利行「新撰禅林墨場必携」(その一)
甲辰(西洋未開人歴2024)年
五月二十三日(木)
円通寺へ行ったので、良寛和尚の詩を読まう。解釈なら飯田利行さんが正しい。さう思ひ「定本良寛詩集譯」「良寛詩との対話」を借りた。更にもう一冊「新撰禅林墨場必携」を借りた。
この本は六百八十九頁もある。図書館から帰るときは、手提げの底が抜けないやうに抱へて持ち、手が疲れた。口絵が十頁あり、左頁が写真、右頁が活字化と書き下し文だ。つまり五組ある。そのうち三組目は良寛和尚だ。書き下し文のみ引用すると
君 看(み)よや 雙眼の色を、
語らざれば 憂いなきに似たり
大愚良寛(以下略)
とある。これは楽しみだが、序の最初で、利行さんと小生の違ひが出てしまふ。
禅林では、行(坐禅の実践)と解(境地を他に伝達できる教養知識)とが相応すること。つまり名と実とが相応することが、禅者として最も望ましい在り方と看做されてきた。
とは云へ、そのあと登場人物の一部を紹介する。そこに
次に越後の良寛は、曹洞宗門などという枠を食(はみ)出し、天の網を張っても罹(かか)りそうもない禅者であった。(中略)無心に徹した良寛の詩句は、天籟の音楽にも比(たぐ)う珠玉ぞろい。また流れるような筆鋒は、凡夫の心を洗い浄めねばやまない。(中略)良寛の和漢竺、神儒仏、詩歌書、楷行草の蘊蓄は、五車に溢れんばかり。その非思量の禅は、思量の天地古今を裂破し、真空(ぐう)の世界に逍遙してやまない。
本文に入り、項目別に別れる。最初の「世界」は
不應世 世に応ぜず
世間と我れとの対立がなくなった世界。(中略)外界とのかかわりなしに自分の仏道修行の道心が確立したことを意味したことになる。
趙州従諗[趙州録]
これなら賛成である。てっきり「悟った」と自称する人の語録化と思ったら、さうではなかった。二番目は
湛々地 湛々地
万波が潮をたたえて増減のない状態。つまり不生不滅の絶対空の世界をいう。
洞山良价[洞山録]
無我は止観の手段、と小生は表現することがある。しかしこの言葉を読むと、無我つまり空こそ本来の姿だと思ふ。同じやうな珠玉の言葉が続くが、二つ飛ばした次に良寛和尚が登場する。
三界何茫々 三界 何ぞ茫々たる、
六趣實難論 六趣実に論じ難し
[十三元]
三界(二字で、このよ)は何と茫漠としていることよ。六趣(括弧内略)の別があるが、果たして誰れが、どれに当たるか、実に言い表わしがたいものである。
大愚良寛[定本良寛詩集]
この本の優れるところは、解説である。[十三元]について、韻をふむものは「四声のうち平声(三十韻)を示し、漢詩作成の便を図った。」と凡例にある。五つ飛ばして
大千世界海中漚 大千世界は 海中の漚(あわ)、
一切賢聖如電拂 一切の賢聖は 電(でん)の払(はら)うがごとし
三千大千世界といってもそれは海中に浮かぶ泡沫(二文字で、うたかた)のようなものである。ありとあらゆるすぐれた賢聖の方がたですら、結局いなづまのように瞬時に消えさるものである。
永嘉玄覚[唱道歌]
良寛和尚の三千大千世界の歌は、この句を知らないと理解できない。その次は
生死因縁無了期 生死因縁 了期なし、
色相世界現狂癡 色相世界 狂痴を現ず
[四支]
生と死とが相い因(よ)り、相い縁(よ)って起こるこの娑婆世界のまよいというものは、いつ果てるともなく流転してやまない。その(中略)現実の世の中は、欲望(二文字で、まよい)の奴隷(二文字で、やっこ)となって、狂乱沙汰を呈している。
夏目漱石[漱石詩集]
この本の優れるところは、僧俗を区別しないところだ。飯田さんの解説を読んでゐると、無常を目指すべきだ、と云ふ気持ちになってくる。あと二つで、「世界」は終了する。この本は、目を離せなくなった。
利行本良寛和尚の詩を読むに最も勝れ復た借りる つひでに借りた禅林の墨場必携 一たびは我が考へと異なると思ひ違ふも よく読めば勝れものにて驚くばかり
反歌
利行さんもろこしのうた曹洞宗良寛様と三つが揃ふ
三部門の権威と云へる。
五月二十四日(金)
「存在」の章に入るが、書き下し文と解説のみにした。原文は正字体で、探すのに時間が掛かる。
中道。
中間も、二辺つまり彼心(色声香味触法の六つに執(と)らわれる心)も此心(内に迷い誤りの想いを起こす心)もない世界。
大珠慧海[頓悟要門]
中道は、中間の意味に使ふ。天台宗では三諦(空仮中)のうちの中諦の意味でも使ふが、教義の複雑化は採らない。中間もない世界とする解説は的を得てゐる。
たとい 千聖あらわるるも、
我れに天真の仏あり。
たとえ千の聖人が眼前に現われて来ようが、私には本源自在の天真の仏が内在している(以下略)
寒山[寒山詩]
利行さんが寒山詩を批判したことがあるので、嫌ってゐるのかと思ったが、さうではなくて良かった。
真と取れば 真はかえって妄。
妄と了(さと)れば 妄はすなわち真たり。
[十一真]
すべて物事に接し、たとえ真でもそれを固執すればかえって妄となる。また妄でも妄の本性を覚れば、かえって真となる。
大愚良寛[定本良寛詩集]
解説が勝れる。つまり「真でもそれを固執すれば」が勝れるのかな。かう云ふ人は、確かに一定割合で存在する。小生が固定思想(宗教)、固定思想(拝米)、固定思想(リベラル)を批判する所以である。
もう一つ注目すべきことがある。[十一真]である。良寛和尚の漢詩のうち平声(三十韻)のあるものは、無いものと比べて時期に違ひはないか。平仄を無視してよいかどうかは、現地に住まないと分からない。
このことは付録で、この文章の勝れるのは「真でもそれを固執すれば」である。
良寛和尚の作はほかにも多く載るが、これを取り上げたのは小生好みなのだらう。
五月二十五日(土)
「真理」の章に入り
大道 もと程なし。
[八庚]
東西古今に通ずる絶対の道(仏道の本体(さとり))というものは、もともと一定のきまり、かぎりなどはなく、無始無終で大きな円鏡のようなものである。
徳隠貫休[禅月集]
解説が無いと、軽く読み終へてしまふ。解説が勝れる。
人あり もし相い問わば、
如実に 自心を知れと。
[十二侵]
もし人あって真言(まこと)とはなにかと問う人がいるならば、答えてあげよう。正身端坐して如実に自身を知ることにあり、と。
大愚良寛[定本良寛詩集]
この次も良寛和尚だが割愛し、その次は
身心 総て脱落、
何物か また疑うべけんや。
[四支]
良寛道人は、身と心とだけではなく、身心霊肉未分の当体まて一切合財脱落(二文字で、さと)っていなる。(中略)「良寛道人を懐う」の長詩の一節である。
大忍魯仙[無礙集]
良寛和尚を、曹洞宗の組織にある僧が誉める。良寛和尚は、宗門組織にある僧以上の存在だった。(終)
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