二千二百五十七(和語のうた)最新の歌論(竹取物語、序詞、一葉の歌)
甲辰(西洋未開人歴2024)年
三月一日(金)
竹取物語に登場する歌のうち、かぐや姫と帝との二首は美しい。それ以外は歌自体に美しさが無くても、物語を構成する役割を担ふ。小生は、実効の美と呼んできた。小生のホームページも、歌はホームページを構成する役割を担ふので、竹取物語には親近感を感じた。
尤も、かぐや姫と帝の間の歌には親近感を覚え、五人の歌には同類感を持った、と言ったほうが、より正確である。五人は偽物を作るなど邪心があるので、その前提で歌を見てしまふ。
万葉集巻十六に載る竹取翁と仙女の歌も、物語の構成を担ふ。五人みたいに邪心を持たないので、素直に読める。
大和歌 美しさ持つ歌及び話支へる歌があり 二つの歌はよろづ葉の世に出揃ひて今に伝へる
反歌
文活かす働きの歌美しの歌に劣らぬ美しさあり
三月二日(土)
萩生田問題に載せた「本歌取り技法の一つ盗作と異なる或る人良心盗られる」は、序詞の歌だと後から気付いた。前半の本歌取りと、後半の良心が盗られる内容は、盗るで繋がる。意図したのではなく、後になって気付いた。序詞の歌は、意図して作れるものではなく、自然にできるものだと知った。
はしがき(序)の詞を含む歌を詠む思ひもよらず入るのが はしがき詞使ひ方かも
反歌
はしがきと枕の詞よろづ葉の時に磨かれ今へと続く
--------------------ここから「良寛、漢詩、和歌」(七十七)-----------------------
三月三日(日)
一葉の歌を読みまづ感じたことは、良寛と同じ作風の歌もある。二番目に、掛詞や縁語を使った歌もあるが、古今集みたいに嫌味が無いのはよいことで、これが本来の古今調ではないか。つまり古今集は古今調の劣化したものだ。三番目に、春夏を過ぎ秋の歌で、月並みが多い。四番目に、恋の歌は実際の恋愛ではなく恋について詠ったと見た。五番目に、雑歌は普通の歌が多い。これは誉め言葉で、秋や冬みたいに月並みではない。
もう一度春を読み直すと、美しい歌が多い。一葉は春が合ふ。良寛と同じ作風と感じたのは
暮れぬとて帰りし友のをしきかな梅の林は月になりしを
おくれたる友の為にとしをりして谷間の蕨折り残しけり
夏は春の続きで変化は認められないが、秋になると急に悪くなる。
何をして今日まであだに過しけん今年もそよぐ秋の初かぜ
中々にすてもはてざるうき世ゆゑ秋来るからにものぞかなしき
破調が無いのはよいことだ。僅かな例外を除き和語なのもよいことだ。
一葉は物語のみ 歌にては夏子か夏で 届け出は奈津につきては 一葉を採る
反歌
人により春夏秋冬合ふ時と話目の前合ふ物があり
春夏秋冬は訓読みで。目の前は景色のほかに眼前にあるものも。景色は「きしょく」が変化した時点で和語とも云へるが、語源を考へ漢語とした。一葉は固有名詞。
三月五日(火)
読む順番で、佳い歌とさうではない歌を感じるのではないか。さう思ったから、本日は秋を読んでみた。美しい歌が多い。歌集でたくさんの歌を読むと、だんだん美しさを感じなくなる。そして春なら春、夏なら夏に慣れてしまふ。そんなときに秋を読むと、駄目だと思ってしまふことがはっきりした。
これは昨年以前に良寛の歌を読んだときにも感じた。歌集は、一日二十首くらい読むのが適量ではないだらうか。(終)
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