二千二百四十一(普通のうた、和語のうた)渡辺崋山
甲辰(西洋未開人歴2024)年
二月十一日(日)
NHKプラスで、「渡辺崋山 〜人を愛するまなざし〜」を見た。幼少期は貧乏で、画家として大成しようと努力。絵が売れるやうになり、飢饉のとき田原藩は餓死者を出さず幕府から表彰された。蛮社の獄で蟄居となり、後に切腹した。画家として大成したが、藩の仕事も真剣に勤めた。上がまづ汗をかく。人が好きだったのだらう。勤めが熱心なのは、藩士として藩を守ることに熱心だった。そんな内容だった。
良い内容だったので、渡辺崋山で特集を組むことにした。調べてみると、今まで山だと思ってゐたが、山だった。家老の家がなぜ貧乏なのかは、代々百石だったが父は養子の為、十五人扶持(田原藩では二十七石)に減らされた。そのため得意の絵を売って貧乏を脱することができた。此の辺りは番組とは少し異なる。
藩主が亡くなったとき、上層部は姫路藩から養子を持参金付きで迎へようとしたが、華山は異母弟を擁立しようとした。結局は、上層部の意見が通った。しかし養子藩主の娘と異母弟の息子を結婚させ、その子が次の藩主になるなど、穏健に収まったのは、華山の功績がどれくらい関はるか。
華山の作品のうち、国宝が一つ、重要文化財は多数。画家としても、家老としても、惜しい人を亡くした。蟄居ののちに、貧困を救ふため、弟子が絵を売ってゐたところ、蟄居に違反すると幕府から疑ひを掛けられ、藩に迷惑が掛からないやう切腹した。
絵師として藩士としても精を出し 国を憂へて書いた文罪に問はれて蟄居のち 藩守るため意志で切腹

反歌  藩命に非ず切腹自らの意志が唯一救ひで残る

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二月十二日(月)
田原市博物館のホームページを見たところ、学者の師友の欄に二十五人載る。そこには滝沢馬琴、佐久間象山、亀田鵬斎の名もある。良寛で馴染みの鵬斎がここにも出てくるとは、望外の喜びだった。
画家の師友・門人で、華山の門人は十一人。そのうちの椿椿山は門人が六人で、そのうちの一人は門人が七人、別の一人は門人とその門人が一人づつ。膨大な数に広がる。
蘭学研究の友人には、高野長英や江川担庵(伊豆韮山代官)の名もある。
良寛と鵬斎崋山良き友の輪は広がりて尽きることなし
(終)
(追記2.13)華山とは無関係の話なので、まったくの蛇足だが、上の歌の対称として次のものも作ってしまった。
良寛の見ず知らず人悪き書(ふみ)輪が広まりてよろづ嘘へと


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