二千二百四十三(和語のうた)最新の歌論(本歌取りと陳腐表現、文語と口語、枕詞の続き、長歌旋頭歌仏足石歌)
甲辰(西洋未開人歴2024)年
二月十三日(火)
一、本歌取りと陳腐表現は、まったく異なる
沼津港旅行記の長歌「打ち寄する駿河沼津の港には」は最初「駿河なる沼津港の」だった。「駿河なる」は陳腐な表現だし、「沼津港」は「沼津みなと」と読ませたいのにこのままだと「沼津こう」と読んでしまふ。そこで「打ち寄する駿河沼津の」に変へた。
本歌取りがあるので、陳腐な表現も使ってよいやうな感覚を持ってしまふ。しかし本歌取りは優れた手法、陳腐は駄目な手法で、まったく逆だ。
「駿河沼津の」は、「駿河の沼津」のほうが自然だ。斬新な表現を選んだ。沼津港が句跨りになる欠点も解消した。

二、文語と口語
小生は、口語だが文語にも感じることができる表現を目指してきた。「打ち寄する」は濃厚な文語だからこれまでなら避けた。今回これを用ゐたのは、「打ち寄する」は枕詞だが語源に二説あり、駿河湾に寄せるのと、「する」が駿河に係るとする説がある。どちらとも云へないので、「打ち寄せる」と口語にはしなかった。

二月十三日(火)
三、枕詞(続き)
前回の最新の歌論で、枕詞の係る先が多いのは「枕詞には言霊があり、だから使用機会を多くした」と想像してみた。
それを発展させると、枕詞は係る先の語を使ふことを目的とせず、枕詞を使ふことを目的に係る先を探したのではないか。小生はかう云ふ使ひ方を一回だけしたことがある。「あづさ弓」を使ひたいので「あづさ弓かへりに乗るかあづさ号制度不便で長野経由に」(旅行と鉄道と地酒)と第二句から後をあとから考へた。
やまと歌 枕詞やそのほかも 分らない事まだ多く それを解くのもまた楽しみに

反歌  長き歌片歌二つあと七音(ね)多き歌など滅びた訳も
片歌二つとは旋頭歌、あと七音多き歌は仏足石歌。今回の特集は(和語のうた)なので、このやうな表現になった。

二月十八日(日)
四、長歌旋頭歌仏足石歌
旋頭歌と仏足石歌は、特殊なものなのでもともと少なかった。とは云へ萬葉集に載るので、字数が合ふときは現代人も作るとよい。
長歌が滅びた理由は、長さと内容の比が悪かった。或いは長さと美しさの比が悪かった。これを改善するには、長さを内容に合った、または長さを美しさに合ったものにすればよい。さうすれば短い長歌が多くなるが、その中から長い長歌も出てくる。小生の長歌は短いものが多いが、場合によって長いこともある。
短歌以外が滅びたもう一つの理由に、歌合や歌会は短歌だった。これが大きいのではないか。
歌を詠む 心を正し世を正し 美しき詠み心詠む 長き短きほかも栄える

反歌  そのほかは片歌二つあと七音(ね)多き歌にてよろづ伝へる(終)

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