二千二百四十二(和語のうた)来宮小田原新横浜旅行記
甲辰(西洋未開人歴2024)年
二月十四日(水)
熱海まで新幹線に乗り、あとは歩いて来宮神社へ行った。ここは樹齢二千年の樟が大昔のご神体で、今はご神木として健在である。樟はもう一本あり、大きな岩と池もある。座布のある止観場も屋外に在り二十分二百円で茶菓子店が受け付けるが、これはよいことだ。神社も止観をするべきだ。古神道は、神への礼とそれに伴ふ止観だと思ふ。そればかりではない。すべての宗教は、神仏への礼とその背後に在る止観だったのだらう。
ふたちとせ経る楠木と止まる観る共に座れば此の世栄える

---------------ここから「和歌論」(百六十五)--------------------
唯一残念なのは、佐佐木信綱の「来宮は樹齢二千年の大樟のもと御国の栄え祈りまつらむ」だ。このまま読めばひどい破調である。「樹齢」は「じゅれい」としか読まないが無理に「とし」。「二千年」は普通に「ふたちとせ」とも読める。それでも破調だ。「大樟」は「おおくす」だが「おこのぎ」と云ふ地名があるさうだ。どちらを選んでも破調だ。「くす」とは読まない。
佐佐木綱の破調は突然変異かと思ってきたが、佐佐木信綱にも萌芽があった。つひ、佐佐木首綱と言ってしまふ。破調の歌を作ると、首に綱を掛けて楠の枝から吊るぞと云ふ冗談である。
「来宮はふたちとせ経る大樟に御国の栄え祈りまつらむ」では駄目なのか。この場合は「大樟」をご神体としたが、「来宮はふたちとせ経る大樟と共に御国の栄え祈らむ」だとご神木の扱ひになる。小生は、ご神体とするのがよいと思ふ。
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---------------ここまで「和歌論」(百六十五)--------------------

二月十五日(木)
本日も旅を振り返り歌を作った。
来宮のふたちとせ経る大楠が世のうつろふを止めるなら 熱くなる星元へと戻せ

反歌  来宮は二つの楠と岩と池社あまたに神の力も
このあと小田原まで普通電車に乗り、駅の北側へ出た。北条早雲の像を始めて見た。
小田原のうまやの西に降り見れば 伊勢で後には小田原の始めとされる像(かたち)を間近

反歌  小田原は東が栄え旅にては西に行かずも真西に箱根
小田原城へ行く予定だったが取りやめた。予定どほり新横浜で降りた。熱海から小田原まで在来線を使ったのはそのためで、小田原新横浜・新横浜東京は、熱海東京と特急券がほぼ同額だ。もし熱海新横浜・新横浜東京だと、特急券が急に高くなる。
新横浜では、まづ開通した相鉄と東急の新横浜駅へ行った。二百五十円と高いので、改札外から見るに留めた。このあと、バス通りを歩いて短期間住んだマンションの前を通り、線路際の道で新横浜へ戻った。つまり右回りだ。横浜には二十五年間住んだが、ほとんどが鶴見区で、最後の数年だけ港北区だった。
このあと新幹線で東京まで乗り、上野駅で途中下車した。上野公園に入ると、裸で越中ふんどしみたいなもの一つの男が大道芸をしてゐる。あれには不快感を持つ人が多いだらう。外国人観光客も多いのに国恥ものだ。
上野にて降り公の園へ行く 勝手に見世物する姿 国の外より来た人の目の前にては国の恥すぐ取り締まり他所の園にて

反歌  裸にて下着一つの出し物は所わきまへ上野は避けよ
反歌  山下は南の端に黒き門(かど)跡示す札水落ちる門(かど)
バスの停留所に山下がある。そのすぐ横から公園に入ると、黒門の解説があり水が出て落ちる門はそれをかたどったとある。小生は日暮里から上野まで線路の西側は地元のつもりだったが、黒門がここにあった事は初めて知った。さう云へば東上野に町名変更される前の旧町名に黒門町があった。
このあと日暮里で降りた。
日暮れ里 谷中の墓の園の端行きなつかしき昔跡 ほぼ変はらずをここのみに見る

反歌  墓の園外の街とは異なるを昔と比べ橋が拓ける
谷中霊園からの橋に、JRと京成の駅出入口ができた。片方の駅から降りて橋を少し歩きもう一方の駅から乗る。だから墓地に行く人はほとんど居ないが、落ち着かなくなった。(終)

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